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アレント『人間の条件』覚書き part 1

ハンナ・アレントの『人間の条件』を読み始める。途中途中でまとめていかないと理解できないので、まとめます。理解が不十分なところもあると思うけれど、メモとして。

アレントによると人間の生活は「労働(Labor)」「仕事(Work)」「活動(Action)」の三つに分けられる。「労働」は人間が自身の生命を維持するために行うこと。「仕事」は人間が人工物をつくり出すこと。そして「活動」は、人間同士の間で行われる営み。活動こそが人間を人間たらしめる、あるいは人間を政治的な生き物にする。ローマ人の言葉では「生きる」とは「人々の間にあること」、そして「死ぬ」とは「人々の間にあることをやめる」ことを意味した。人々の間において行われる「活動」こそが、人間の条件となる。ちなみに、この辺りには日本語における人間(人の間)との親和性を感じる。

古代ギリシアのポリス(都市)に生きる市民にとって、「活動」を行う公的空間のみが、人間が人間らしく生きられる唯一の場だった。そこではすべての人が対等であり、言論によって自分がいかにほかの人よりも優れているのか、を表すことが重要視された。一方で私的空間、具体的には家庭は、人間がその生命を維持するために「労働」することを余儀なくされる場である。プライベート(private)な生活とは、人間性を剥奪(deprivation)された生活と同義だった。また、あらゆる人が対等な公的空間とは対照的に、私的空間においては家長の権威が絶対であり、そこに自由はない。私的空間は、生きるために「労働」しなければならず、同時に常に権力に従うことを強制されるという二重の意味で不自由な場である。

近代になり「社会」が誕生すると、そんな公的空間と私的空間の境目があいまいになってくる。ここで言う「社会」とは、卒業したら社会に出る、という時に使うような、一般的な意味での「社会」と受け取っておけばよいだろう。社会において人間は、かつては私的空間の範疇にあった「生存するための労働」に従事する。近代の共同体では、多くの社会人たちが食いぶちを稼ぐための「労働」者として、権力に仕えながら必死に働く。

とここまで書いて、理解の正確性はともかくとして、なかなか示唆に富んだ議論が展開されていると思う。例えばベーシックインカムとは、社会において、生存のための労働に従事する労働者の自由を復権させる手掛かりになり得るのかもしれない。また、ここ最近考えているメタバースについて言うのであれば、ポリス的な、つまりすべての人が対等に言論を交し交流しあう「活動」の場としてのメタバースと、飯を食うために労働者として存在するリアルワールドという対比も可能なのかもしれない。

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