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まっくらくりすます

子どもにとって「台風」や「豪雨」「雷」などといった自然現象は、生活を脅かす恐ろしさを感じる前に、経験のない未知なる好奇心の種だ。それに伴う「停電」という出来事は、洞窟をさまようような、それだけで充分すぎる冒険だった
そうわたしは、過去に真っ暗いクリスマスの経験がある

クリスマスケーキにろうそくを立てることはないけれど、その当時はわりと停電というものは多く、雨が降っても電線が切れたり断線したりして、それほど珍しいことでもなかった。各家庭、懐中電灯は消火器同様、当たり前のように消防団が売りに来ていた。ホームセンターというものもまだまだ存在を知らない頃、電池を要する懐中電灯よりもマッチ一本で火のつくろうそくの方が多く常備してあった時代。加えて実家には仏壇があり、仏壇の引き出しの中にはいつも手のひらサイズのろうそくが箱で準備されていた。やたらなことでは火を灯せないそのろうそくが、停電となると結構な本数出動する

今だったらお洒落なろうそくや、アロマの香りのするろうそくなんかをあちこちに飾って、もう少し楽しめたかもしれない。でもあの頃は子どもだったし、電気のある生活に慣れているわたしたちには「暗い」ことは当たり前に怖くて、けれどそれ以上に興奮し、親の保護区にある子どもは無邪気にワクワクを隠さずによかった

冬の夜は静かなはずだ。けれど、雪の降る夜はそうでもない。ぼっさぼっさと音がする。言葉の強さほど大きな音ではないけれど、空から降りてくる途中で、充分に掴める大きさの雪の集合体が降り積もっていく様は、まさにぼっさぼっさであったのだ。まわりの都合なんかはものともせず、雪はマイペースで静かに、ぼっさぼっさと降りてくる
停電の中、テレビの音も家電の音もなにひとつない真っ暗闇の家の中に、そのぼっさぼっさは少し不気味に思えた。時折、屋根から落ちる雪の音もまた然りである。どさどさ…っと、高いところから重いものを落としたかのように、その音は不定期だが雪が降っている間は感覚を持って聞こえてくるのだ

聞こえてくるのは怖い音だけではなかった。雪の中、ときどき通る車の音が好きだった。スタッドレスが当たり前ではなかった頃である。チェーンを巻いたタイヤがそこかしこでシャンシャンと行きかうのだ。雪の上を走るその音が、子どもの耳にはまるでサンタさんのそりのように、しゃんしゃんシャンシャン…と音を立てて薄暗い景色の中に消えていく。もちろん、家の前で停まることはないけれど、この音が家の前で停まったら、もしかしたら赤い服を着たひげ面のおじさんが降りてくるのかもしれない…なんて妄想を抱いてカーテンをめくったりしたものだ。子どもの想像力というのは本当に果てしないものだ

記録的な大雪・・・・とかなんとかニュースで取りざたされていたかもしれない。雪の重さで電線が切れたり、電話線のボックスがショートしたり…なんてことは、当時の雪の季節では想定内の出来事だった
しかし電気が切れるということは、家中の家電が息をひそめる…ということだ。ちょっと玄関先に出しておけばビールはキンキンに冷えてくれるような寒さだ。倉庫に蓄えられている沢庵や白菜の桶もうっすらと氷を張っていることだろう。よって冷蔵庫はそこまで心配しなくてもいいが、電気ストーブやこたつしかない家の中は寒さに負けて寝るしかやることがなくなる。ただそこまで電気まみれの家というのも当時は少なく、灯油を使ったストーブもあれば、こたつの中身は豆炭行火や練炭だったりする時代だった。ろうそくのおぼろげな灯りの中ではしゃぐ子どもたちをよそに、大人たちは「さっさと食べて寝なさい」というが、しかし子どもは「そう簡単に寝てやるものですか」と、チキンやクリスマスケーキを前に、気分は大みそかの紅白歌合戦を見るような気持ちで心はスタンバイだ

おもしろいことに、電話は電線がどうにかなっても繋がるのだ。タイミングよく停電中に電話がかかってくると、それはそれは笑い転げていた。てけてけてけ…っと、とにかくベルではないおかしな音が家中に響く。待機電力なのだろうか? 詳しくは知らないが、子どもの思い出としては「電電公社はすごい」ということしか記憶にない

真っ暗闇の中、ろうそくの明かりの下でいただく食事は、さながら洞窟の中でマンモスにくらいつくような楽しさがあった。しかし手元は暗い。シャンメリーを零してしまったり、ケーキの上のいちごをぼとりとやってしまったりと、子どもは大人が嫌がることをやらかすものだ。漫画の中のようなことが当たり前に起こる。子どもとてワザとではない。しかし大人がさっさと寝かせてしまいたい気持ちは充分にプレッシャーとなって伝わっているのだ。そんな中でも密かに「楽しみたい」気持ちがあるから心は逸る。楽しいクリスマスも、停電したというだけで、そんな緊張感に覆われる

これだけ語っておきながら、クリスマスという行事にそれほど楽しい思い出があるわけではなかった。一番の記憶に残るのは、この停電の真っ暗なクリスマスであるが、わたしは幼少期ケーキが嫌いだった。なぜならうちにやってくるホールケーキは皆「バタークリーム」だったから・・・・あのぬらぬらとした口触りがなんとも苦手だった。生クリームのケーキがやってきたときには歓喜したものだ
そしてもうひとつ、骨つきの鶏肉も実は好きではなかった。もちろん本格的にクリスマスを祝うわけでもなければ、おそらく子どものために仕方なくそれらしい食卓を装っていただけなのだろう。だからターキーでもなければ、手羽先でもなかった。でもむしろわたし的には手羽先の方がよかった。しかしながらクリスマス、店頭にはリボンのついた骨付き肉がずら~りと並んでくれる。大人も浮かれて手を出してしまうというもの。なにより、父はその鶏肉が好きだった。一家の長は絶対優先、だから特に疑問も持たなかったしあえて苦手を口にすることもなかった
リボン付きの鶏肉は見た目こそ魅力的ではあったが、わたしはぐにゃりとした触感の鳥皮が苦手で、しかも皮を剥げば今度は味のない身を食べなければならない。なにせたった一日のための鶏肉、大量生産で煮るのか焼くのか解らないが、仲間で味が染みている美味しい差はこの際求められていないのだ。皮ごと食べれは味わえるのかもしれないが、皮は食べられなかったからね。なにか他の調味料で味をつけようなどいう考えも思いつかないまま、子ども心にクリスマスの食卓は苦痛でしかなかった
でも、シャンメリーは好きだった。時期を過ぎて安売りするシャンメリーを小遣いで買ってはコソコソ飲んでいた。なぜコソコソか…それは、本気でお酒だと思っていたからだ。子どもは実に浅はかで単純、ホントにかわいいものだ

さて大きくなったわたしは、サンタを兼ねた親になった。自分の子どもにはがっかりされたくないもので、それはそれはいろいろと装った。自分の親がわたしにしてくれたように、子どもたちを楽しませたいと考えた。自分なりではあるけれどそれなりに頑張ったつもり・・・・が、ハタと気づいた。それって「子どもたちのため」と言いながらも自分の理想のクリスマスを押しつけていたのではなかろうか…と。だから、もしかしたらわたしが窮屈に感じていたように、我が子も窮屈に感じていたのかもしれないなぁと思った

自分の家を持てたら天井に届くような背の高い大きなクリスマスツリーが欲しいと思っていた。当然子どもたちも喜んでくれたけれど、オーナメントはわたしが選んだ。それはつまりわたし好みのツリーだ。それでは子どもたちのクリスマスとは言えない。わたしは子どもたちを無視して、自分のクリスマスを楽しんでいたに過ぎなかった(反省)

でも、それはわたしにとっては必要なことだったかもしれない。子どもの頃のわたしを満足させてあげる必要があったのだと思う。そうでなければきっと、子どもたちのクリスマスを用意しても一緒に楽しめなかっただろう。結果として自己満足にすぎないことではあるが、いくつになってもわたしの中の子どもの心は無邪気にワクワクしたいのだ。ワクワクできなければ、ワクワクを共有することはできないと思うから

さすがに今は停電するほど雪が降ることもなければ、雪や雨であっさり停電してしまうような仕様の家も少なくなった。もちろん電線等々そんなに簡単に停電が起きるようなやわな作りでもないだろう。だから真っ暗なクリスマスを経験することもない。でも豪雪と言われる地域では、まだまだあるあるなのだろうか


今年は尋常じゃない雪の量だそうです。こういった自然災害に慣れはありません。みんなが楽しいクリスマスを過ごせますように・・・・
そして笑顔で新年を迎えることができますように(*´▽`*)



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まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します