日差し

小説『オスカルな女たち』2

第 1 章 『 意 思 』・・・2


   《  真  実  》

吉澤真実:よしざわまこと(離婚暦あり)   
スポーツ特待生。入学費、寄付等々の免除での入学となるが、学生生活には欠かせない〈イケメンキャラ〉として黄色い声を浴びながらソフトボール部の名キャッチャーとして活躍、母校を何度となく勝利に導いた。
そんな彼女は早くから脚光を浴び将来も嘱望されていた。だが高校2年の夏の大会で、プレイ中に他校の生徒と接触し膝を痛めて引退を余儀なくされる。選手としての活躍は望めなかったものの、他の部員のたっての希望でキャプテンとして、またマネージャーとして最後まで部を盛り上げ、在籍中の3年間をすべて優勝で飾ったという輝かしい経歴の持ち主だ。ゆえについたあだ名は『奇跡のオスカル』。当時から彼女は男勝りで髪もスポーツ刈り、セーラー服より学生服をまとわせたいような、まさに宝塚の男役さながらに後輩からのラブレターも数知れなかった。
卒業後は家業の産婦人科医院を継ぐため1年浪人の末医大に進学、途中学生結婚、卒業と同時に出産、そして離婚…とスポーツのように目まぐるしく裏表の激しい人生を送って今に至る。
現在は実家住まい、母親と愛娘の3人で暮らしている。

「3710円です」
そう言って左後部座席のドアは開いた。
面倒くさがりの真実(まこと)は普段からあまり小銭を持ち合わせない。ショルダーバッグの中を無造作にまさぐり、財布を取り出すと、瞬きする速さで聞えない程度の小さな舌打ちをした。
財布の中の一番小さな紙幣は5000円札だった。
「釣りはいらない」
5000と数字が書かれた端をつまんでひらりと差し出す。運転手の指がそれをつかむかつかまないかのタイミングで手を放し、相手の顔を見なくて済むようすぐさま腰を移動して降りた。おそらくそれは運転手にとっては「失礼な態度」であり「偉そうな客」として映ったことに違いない。そのためのチップというわけではないが、真実がひとりでタクシーを使うことがない理由がそこにあった。
いつの頃からか、真実は男性不振になったようだった。
自分ではそれと気づいていなくとも明らかに、歳を負うごと確実に嫌悪感が増している。そんな「男嫌い」になったのは、父親がいないせいだと思っていた。今は髪こそ伸ばしてはいるが、その様相は男装の麗人そのものだ。高校の制服を脱いで以来、スカートを履くことすらなくなった。
(織瀬(おりせ)は無事にやり過ごせたのか…?)
照明の消えた自分の医院を見上げ、小さく息を吐く。そうしてつい先ほどまで一緒だった友人たちのことを思い返す。

ティラミス

『ね、写真とってくれる?』
カウンター越しにバーテンダーにスマートフォンを手渡す、つかさを挟んで左端の織瀬をぼんやりと眺めていた。
真実はいつも端を好んで席に座る。もっと言えば、必ず出口に近い位置にいた。決して前のめりはせず、自分の連れを第3者的な位置から見守るように眺めるのがいつものスタイルだった。
『トップ画面にカメラマークついてるから…』
そんな織瀬の行動に「そろそろ潮時か」と頬杖を着いていた右手をはずし、少なからず苛立ちを感じながら、それでもいつもどおり悪びれない笑顔でこちらに目を落とす織瀬が憎めない真実だった。
『よって、よって…』
あたしはそっちを見たくない…そう思いながらも言われるがまま、真ん中にいるつかさに顔を寄せながら、スマートフォンを縦に横にともたついているバーテンダーをちらりと一瞥する。
(誰でも友達かぁ…)
織瀬のくったくのない態度にやれやれと目を伏せる。
『じゃ、いきますよ…。はい、チーズ』
愛想笑いをしながらそっけなく、織瀬にスマートフォンを返すバーテンダーを横目に、話の花が咲かないうちにさっさと切り上げようと背もたれに挟み込んでいたバッグに手を伸ばした。
『そろそろ帰ろうか…』
すると、タイミングよくつかさが口を開いた。
『そうね。明日、朝一番でオペが入ってるんだ』
掴んだショルダーバッグを肩に掛けながら立ち上がる。
『そうなの? 言ってくれたらよかったのに』
すぐさま織瀬が乗り出してきた。まだ、帰りたそうにない顔をしている。
手術自体は別に大変なわけではなかった。ただ仕事柄避けられないとはいえ、やはり気持ちが重くなる。カルテに記載された年齢は17歳だった。
『気が進まないやつだから…』
言ってしまって後悔する。言わないつもりの言葉が、そう口をついて出てしまった。気を許した仲間とはいえ、弱音を吐いたようで急に自分が情けなくなる。
聞こえてなければいい。だが、
『あぁ…』
どちらともなく漏れてきた言葉に、自分を恥じる真実。
(気を使わせた…?)
『大変だね』
気の毒そうなつかさの顔を見て、いいわけみたいな笑顔を返して答える。
『仕事だからな』
事実だが、やるせない。
17歳と言えば、自分は汗にまみれ男のことなど考えもしなかった時期。とはいえ当時は「一人前」だと思っていた。だが、40歳を目前にした今では17歳は大人の心を併せ持つ立派な子どもだ。
この頃気の進まない手術の前日は、織瀬と一緒にいることが多かった。なんとなく気が紛れるというか、明るい笑顔の織瀬といると余計なことを考えなくて済んだ。だからと言うわけではなかったが、いつ妊婦が産気づいて呼び出されるとも解らない立場上、よっぽどのことがない限り出掛けられる時は気が進まなくとも出向いて行くことにしていた。産後の玲(あきら)も生活が落ち着き「久しぶりに出かけたい」と言ってきたことも理由の一つだったが、「4人が揃うなら」と今日の同窓会は出掛けていくことにしたのだ。
食べすぎたか…と、お腹をさすりながら歩みを進める。
真実の経営する「吉澤産婦人科医院」は曽祖父の代から続いていた内科医院で、母の代から産科婦人科を併設し、真実が産婦人科医として名乗れるようになった35歳を気に、無理矢理経営権を委ねられたのだった。それは母ひとり娘ひとりで、跡継ぎを気に病む母親の策略でもあった。まだ大学病院に籍を置いておきたい真実だったが、いずれそうならなければならないと思っていたことでもあるので、名前を貸すつもりで承諾したのだ。
真実は、手術がある前の晩は院に泊まるのが習慣になっていた。織瀬たちには日課なのか、いわゆる験担ぎのジンクスかと問われたこともあったが、本当のところの理由は誰にも言っていない。実際問題、最近では織瀬といることが多かったため、帰り道の都合もあった。
ひとりでタクシーに乗りたくない・・・・。
普段は車で自宅と医院を行き来しているが、アルコールを避けられないこんな日は、どうあっても駅からタクシーで院に向かわなければならない。
『兎追(とおい)町、吉澤産婦人科経由で、4丁目』
織瀬を奥に座らせ、慣れた口調でタクシーに乗り込んだ。
織瀬の携帯が再び光を放ち、内心疑いを持ちながらも彼女の様子を見守る。滅多に掛けてこない夫の名前、今度は自分の携帯電話かららしいが、あまり歓迎しないのか織瀬本人訝しげにそろりとスマートフォンの画面に指を滑らせる。
『もしもし…?』
内容は解らないが、漏れ聞こえる声の調子から只ならぬ雰囲気だと窺える。あからさまではなかったが受け入れがたい事態らしい織瀬は「問題発生」と目で訴えかけているようだった。
2、3静かに会話をつなげ溜息と共に電話を切った。
『お義母さんが来たらしい』
『こんな時間に?』
話の途中ではあるが、真実は前のめりに助手席の肩をつかみ、
『運転手さん、上から行ってくれる? 4丁目を先に』
今更とは思うが、少しでも早く帰したほうがいい。義母は厄介な人物ではなさそうだが、今日の織瀬はしたたか酔っている。もっとも、今の電話で酔いもすっかり冷めてしまっただろうが。
『あぁそんな、平気なのに』
言いながら、語尾の声が小さくなっていく。平気なはずがない。最近では子どもが出来ないことにいたく熱心に説いている姑のことを思えば、その行動は当たり前に映った。
『いいから、いいから、』
話の腰を折った真実は少しでも織瀬を落ち着かせたかった。いまいち自分の行動も狼狽しているらしいことなど今はどうでもいい、手をひらひらさせながら促す。
聞けば織瀬の姑は不在時に合鍵を作ってまで侵入を試みたらしく、「鍵を替えろ」とは言ったものの、もはや織瀬ひとりの問題ではない。
『しょっちゅう来るから、管理人さんにも一緒に住んでると思われてて…』
相変わらず身勝手な行動だ。織瀬の多少の誇大妄想を引いたとしても、お姑さんのそれはやりすぎではないのか。
『ユキくんは、なんて?』
自分の母親の行動を異常とは思わないのか…それとも、言わないだけで実はマザコンなのだろうか。
『医者にも治せないって言ってる。病気だから仕方ないって』
『はあ? 言うだけか』
それが男の仕事か…と似たような情景が頭をよぎる。
そんな会話をしている間に織瀬の住むマンション前、慌しくバッグを掴み財布を取り出そうとする織瀬を制して、一旦車を下りた・・・・。

つき

(あのまま自分も降りて歩けばよかった…)
後悔先に立たずとはこのことだ。
「姑がいると大変だ」
独り言のようにつぶやき、そしてかつて自分にもそんな時があったことを思い出すが、それ以上脳裏に思い出がよみがえらないようすぐさまかぶりを振って玄関までのスロープを駆け上がった。
「よ…っ」
電源の落とされた医院の正面玄関の自動ドアを押し開ける。
バーを出る際、夜勤の看護師に施錠を外しておくよう電話連絡を入れた。物音を立てないよう慎重にドアを押し戻し、鍵を閉めてから静かに診察室とは反対の方向へ進む。まるでコソ泥のようにして左手奥の〈ファミリールーム(患者だけでなくその家族も泊まれる入院施設)〉に入っていった。
真実はバツイチだ。そして、来年中学生になる娘がひとり。
医学部に通っていた頃は多数合コンの誘いがあったが、勉強に明け暮れていた真実はそれどころではなかった。だが、大学も半ばを過ぎた24歳の時、高校卒業以来音信普通だった幼馴染の玲がひょっこりと現れ「たまには息抜きも必要なのだから」との言葉に促され、一度だけ出掛けて行ったことがある。
(そんな付き合いも必要か…)
相手は公務員という話だったし、お堅い集まりであれば抜け出すのも容易だと考え、軽い気持ちで出掛けて行ったのが間違いの始まりだった。そこで出会ったのが別れた夫〈長谷川佑介(ゆうすけ)〉だ。学生の真実と違い、佑介は高卒からの社会人であったため随分と大人に見えたのか、真実の頭に描いていた公務員とは違い、適度に不真面目で適度にユーモアのあるノリのいい男だった。
〈まこと? 男みたいな名前だな…〉
〈俺、おまえといるとホント楽だわ~〉
〈男らしいのは名前だけじゃないんだな〉
そんなお調子者の佑介同様に「気楽」さを感じていた真実は、なんだかんだと誘われると断れずに会うようになっていった。だが、なかなかどうしてルーズな男で、何度となく約束をすっぽかされたりドタキャンを食らったりしたものだった。それもそのはずで、公務員は公務員でもその職業は時間の不規則な警察官ゆえだった。
それは、真実の中で一番ありえない取り合わせだった。
その後、のんきな佑介の思い付きと、そんな佑介の調子に乗せられその気になった真実の母親になんだかんだと言いくるめられたのち、めでたくゴールインとなるのだが、今はひとりだ。
「ふう…」
シャワー後スエットに着替えた真実は、今度は堂々と診察室に向かう。さも「ずっといましたよ」という無駄なアピールだが、思いのほか静かな院内に、どうやら2階の夜勤の看護師たちは新生児のミルクの時間らしいことを知る。
(こそこそする必要もない…か…)
院内に一室だけ設けられているファミリールームは、滅多なことで入院患者が入らない。それをいいことに、真実はしばしばこの病室のシャワーを使う。母親に見つかれば大目玉だが、大概看護師が気を回して個室の清掃と並行して小まめに滅菌の清掃機械を入れてくれている。
診察室の灯りをつけ、腰に手を当てぐるりと見渡す。エメラルドグリーンを基調に、無駄のない配置をされたここは、いわば真実の聖域であった。
まっすぐ机に向かい、スタンドライトの電気を点ける。もう一度入り口の扉に戻り、部屋の灯りを消した。スタンドライトの光だけの診察室は、少しオカルトめいた空間に変わった。だが真実には、なぜかそのほうが落ち着いた。
おもむろに診察台に横たわり、胸の上で手を組んで目を閉じる。
明日の患者は17歳、その頃の自分は制服を着ていた。そして、初めて男に身を委ねた歳でもあった…。
遠くにあの頃の喧騒がよみがえる。いつも自分が中心にいた『奇跡のオスカル』と呼ばれていた、日差しと砂埃と汗にまみれていたあの頃。

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…-、…-、…ゃ-…ゃ-。
〈……マコ!…マコ!〉
〈まこと…!〉
〈真実先輩…!〉
ソフトボールでスポーツ特待生として高校に入学した真実は、なんの疑いもなくただがむしゃらに青春を謳歌していた。しばしばマスコミにも騒がれ、卒業後の進路も「大学」「実業団」「大手企業」…と選び放題で将来を嘱望されていた。そんな矢先あの不運な接触事故が起きたのだ。
高校2年の夏の大会…決勝戦のクライマックス、延長の裏だった。相手バッターが跳ね上げたボールをキャッチしようと必死だった真実の左膝に、なんとか加点しようと滑り込んできた相手選手のスパイクが直撃したのだ。真夏の暑い中の長丁場で、額に汗が流れ目を閉じた一瞬の出来事であった。
〈…っ!〉
〈キャーっ!〉
〈救急車だ!〉
不慮の事故とはいえ選手生命を絶たれた真実は、人並みに不運な人生を恨み自暴自棄になって荒れてみた。それまでソフトボールにしか興味のなかった真実に他の選択肢などあるはずもなく、なにも手につかなかったのだ。
〈おまえはまだ若い。腐るな!〉
〈選手じゃなくても、おまえにやれることはある〉
〈おまえのこれまでの経験を、後輩たちに残してはやれないのか〉
毎日のように青春よろしく真実の家のドアを叩いていたのは、当時バッティングコーチをしていた〈若狭八起(わかさかずき)〉という皮肉めいた名前の新任講師だった。半年あまり病気療養中の教師の代理講師だったが、大学で野球のピッチャーをやっていたという経験から、自主的にコーチを名乗り出たということだった。
〈おまえの痛みをオレに分けてくれ〉
〈たった一度の挫折で将来を棒に振るのか〉
〈吉澤! 今日という日はもう戻らないんだぞ!〉
その熱さが真実には鬱陶しくてしょうがなかった。
おかげで一人前にふてくされて「自棄になって奔放に振舞う不幸な女子高生」というやつを一生懸命やっている自分が阿呆らしく思えてきた。毎日やってくる熱血筋肉男の臭い台詞ですっかり熱が冷めたというわけだ。
〈どうしてそう熱くなれるのかなぁ。…先生、あたしのこと好きなの?〉
ある時、自宅の2階から玄関先の若狭にそう声を投げてみた。
〈毎日毎日、そんなばかみたいにでかい声で叫んでくれちゃってさぁ。近所迷惑とは思わないわけ?〉
〈吉澤…〉
自分の名を呼ぶ嬉しそうな声色が、捨て犬のようでおかしかった。
〈せんせーさ…あたしのこと、好きなんでしょ〉
そんな真実の戯れの言葉に、若狭は仁王立ちのまま固まっていた。
〈あがってくればー?〉
〈そ、そういうわけには行かない。オレは教職者だ〉
うつむいたまま答える若狭に「じゃぁなにしにくんのよ?」…とため息をつく。
〈そ、それは、おまえが心配だからだ。そろそろ学校に出てこないか〉
そう言って顔を上げる若狭だったが、キャミソール姿の真実が目に入ると、すぐさま頭を下げた。その姿がまたおかしくてたまらない真実は笑いながら答える。
〈ハハハ…気が向いたらね…〉
〈…ま、待ってるぞ〉
そう言って若狭は足早に去っていった。
〈ばかか。女知らないわけでもあるまいし、照れてやんの〉
ありがたいことに、その日を境に若狭は家に現れなくなった。
《先生学校辞めたのよ》
数日後、久しぶりに電話を掛けてきた玲(あきら)だった。
《というより、期限切れ? もともと代理だったわけだし》
病欠の教師が戻ってきたということだった。
夏休みもとうに終わっていた。
その翌週から真実は登校するようになったのだが、玲の言うとおり若狭の姿は校内のどこにも見当たらなかった。
「待ってるって言ったくせに…」
特に期待もしていなかったが、なんとなくふてくされてみた。
結果として真実のソフトボール部はかろうじて優勝を飾った。真実は膝を蹴られながらも、しっかりとボールを握り離さなかったのだ。
思い残すことはなかった…が、引退していく3年生が次の部長に真実を指名したことによりお役ごめんというわけにはいかなくなった。
〈実際、迷惑な話なんだよ…〉
言いながらも、なんとなく執着していたのにはそれなりの理由もあった。
〈医大ってガラでもないっしょ…〉
部活を辞めたら「医大の進学を考えろ」と母親に言われていた真実は、どうしてもその気になれず、部活を辞めずに済む言い訳として最後の悪あがきとして部長を引き受けたのだ。そのおかげもあってか、翌年の功績に繋がるというわけだが、それまでにもいろいろと葛藤はあった(のちの話になるが、そこまで頑なに医大の進学を拒絶していた真実の心を動かしたのは、皮肉にも若狭の貢献による…)。
部長を引き受けたものの、練習に参加するわけでもない真実は、部の活動を少々ないがしろにしていた。グラウンドに足を運ぶといつの間にか若狭の姿を探している自分がいることに気づいてしまったからだ。そうなるとグラウンドから足が遠のくのは時間の問題で、1日おき、週に1、2度と、秋風が小雪を舞い上げる頃にはすっかりグラウンドに足が向かなくなっていた。
そんなある日、真実は自宅の前に立ち尽くす若狭の姿を捉えた。
「そこでなにしてんの?」
夕焼けに晒されたその長身の姿を、内心幻かとも思った真実だった。
「吉澤。元気でやってるか」
どことなく覇気のない姿に「入れば?」と促してみる。が、
「い、いや、そういうわけにはいかない」
相変わらず、ぶっきらぼうな調子に噴出す。
「ぷっ…だってもう先生じゃないじゃん」
「そ、それはそうだが」
なんとなく、やはりこの男は自分に気があるのでないかと疑った。が、あるわけはないとすぐさま打ち消す。だが、好きにすれば…とさっさと玄関に入る真実の後を、意外にも若狭は素直についてきたのだ。
「なんのお構いも出来ません、が、
そう言って台所に通し「さっさと帰れ」とばかりに、なにも出さずに向かい合わせにそっぽを向いて座った。
(なにやってんだか)
真実はそんな自分の態度に妙な緊張感を覚えた。また、黙って従う若狭の行動に苛ついてもいた。
目の前の情けない男に同情したのだろうか。そんな自分の意外過ぎる行動に、早くも後悔していた。
それまでの真実はちやほやされていてもどこか居心地が悪く、ソフトボールがなければ誰も自分という人間を人として見ることはないのだと、大会後の自分の身の回りの静けさに嫌というほど痛感させられていた。たとえそれが周囲の気遣いだったとしても、17歳の筋肉脳にはそんな機微な心遣いなど理解できる余裕などなかった。
初恋、なんだろうか…?
(いや…ないな)
そこまで恋焦がれていたわけではない。ただ、自分の実力を一番認めてくれていた人物だった…というだけだ。なにより人間扱いされている。
「で、今度はなんの用?」
聞けば若狭は、スポーツトレーナーになるために大学に戻ったということだった。
真実が学校に戻ったらしいことを耳にしたが、どうやら部活からは足が遠のいていると聞き及んで気になって来たのだという。
「うっとうしいなぁ…そういうの、相変わらず」
一体なんの目的かは知らないが、とにかく煩わしかった。
「ま、まぁそういうな」
本当に、本気で自分を心配しているのだろうか。
「やっぱり、あたしのこと好きだったんだ」
「ま。…まぁ、そ、そうだな」
 照れながら頭をかく。
(へ?…認めたよ、こいつ…)
「…告白、しに来たわけ…?」
「いや、そういうわけでは…」
「アンタが来たくらいで部活に行けたら、登校拒否もなくなるだろうよ」
そうまでする若狭の行動が、いちいち癇に障った。
大人の男を見くびっていたのだろう、単に考えが甘かったのだろう、真実はただ子どもだったのだ。そして、そんな大人の男に、いたずらしてやろうと思ったのかもしれない。
「…じゃ、」
真実は今思いついた、とばかりに立ち上がり、
「もう用は済んだんでしょ。帰れば」
(男なんか…頭の中、みんな同じだ。酒と、暴力と、女…)
学生カバンを拾い上げ、いつもそうしているかのように左手で靴下を脱いだ。台所の引き戸を開け、背中を向けたまま、
「あたしのこと、好きなら上にくれば。そうじゃないならバイバイ」
今脱いだ靴下をその場に落とし、言い残して静かに階段を上った。
(なにやってんだ…)
自分がなにをしているのか、なにを言ったのか、ただ言えるのは真実の心の傷は癒えてはいなかったということのみだ。夏の大会の後の空虚感、奇跡と称えられお情けで持ち上げられた「部長」という勲章、グラウンドに行ってもなにひとつ真実の心の隙間を埋めてくれるものはなかった。ゆえに自分を認めていた若狭の姿をグラウンドに探していたのかもしれない。
「ちっ…」
部屋に入るなりカバンを放り、ドサリと身体をベッドに落とした。
「ばかか」
ガラガラ…と、台所の引き戸の閉まる音は聞いた。だが、階段を上ってくる音までは聞こえなかった。
「はっ…」
(なにやってんだか…)
寝返りを打とうとしたその時、開け放たれた部屋の襖の前に影が差した。
「ちょ…!」
きやがった…!
そう思った時には既に遅く、ベッドサイドにあとずさってみても狭い部屋の中で逃げられないことは解り切ったことだった。
こうなることを望んだんじゃないのか。でも。
(イヤダ…キモチワルイ…)
真実は急激に〈男〉という生き物を見せつけられた気がした。
「よし、ざわ…」
迫りくる若狭の顔を避けるようにしてもがく制服のスカートがめくれ、膝の傷があらわにされた。
「…っつ…」
若狭は膝を両手で包むようにして傷口に顔を寄せた。
(蹴り上げてやる…!)
だが真実は、抵抗することなく無言のままその行為をやり過ごした。
そして膝の傷を愛おしそうにする自分よりも大きな肩から目をそらし、こわばった体で若狭の昂ぶりを受け入れることにしたのだ。「受け入れた」というより、本音は動けなかったというべきだろう。
(なに、やってんだ…)
決して若狭が好きなわけではなかった。
まだどこかに残っていた情けない自分が許せなかった。怪我をしたくらいで…たかがソフトボールが出来なくなったくらいで…拗ねた自分を持て余していた。やり場のない気持ちをどうにかして傷つけたかった。そうして、ほかの傷で心の隙間を埋めたかったのかもしれない。
(なにやってんだ、か…)
キモチワルイ…キモチワルイ…キモチワルイ…
オトコハ、キタナイ…
自分が男嫌いなのは、父親がいないせいだと思っていた。
物心ついた時から母子家庭で、家業は産婦人科医。真実の周りには幼い頃より「神聖な命」である赤ちゃんを身籠り育てる「尊い女性たち」「女」ではない「母親」と呼ばれる女性たちがたくさんいた。しかしその尊い女性たちは皆、産婦人科にやってくるときには真実の思う「尊い」存在どころか、このような醜い所業のなれの果てなのだ。
男嫌いは、父親がいないせいだと思っていた。そして。
(…この程度で、落ち込む自分はもっと醜い…!)
アタシハキタナイ…アタシハオンナ…アタシハキタナイオンナ…
当時の真実には、弱音を吐ける場所がなかった・・・・。
クルナ…。クルナ、クルナ、クルナ…、

画像4

くるな…くるな…来るな…
「くる…」
ちゅ…💛
その瞬間ぬるりとした生温い感触が唇を覆い、夢うつつで動けないながらも真実はそれを噛み切ろうと試みた。
(この…!)
「王子様、朝ですよ」
急に瞼の向こうが明るくなり、視線の先には唇が遠のいていくのが見える。
「え? 楓?」
シャ…っと、開け放たれるブラインドの整列した隙間をもれるまぶしさに腕をかざすと、思わず診察台から落ちそうになる。
「うわっ…」
「先生、歯ぎしりコワイ…」
(歯ぎしり?)
「かえでちゃん? 今、」
膜を張ったような違和感の残る唇に手の甲をこすりつける。
「楓ちゃんじゃないですよ。もう…先生、また診察室なんかで寝て。いくら暖かくなってきたっていっても、風邪ひきますよ。…さっさと着替えてくださいね」
ずかずかと診察室に入ってきたのはピンクの天使〈木下楓〉だった。
「楓ちゃん、もう少しまともな…。え? もうそんな時間?」
両頬をよだれでもぬぐうようにしてこすりつけて我に返る。早番の看護師がここにいるということは、朝の検温が始まるということだ。
「そんな時間ですよ~。来週出産予定の佐々木さん、先程破水したって電話がありました。15分で到着です。今日は9時からオペも入ってますし、忙しくなりますよ」
そう言いながらスタンドライトの灯りを消し、机の上にカルテをタンタンタン…と並べていく。
「目、覚めましたか」
手術の朝は毎回、楓が起こしてくれる。ほかの看護師は真実が怖くて診察室に入ってこられないらしいのだ。
「はいはい…。それより、もう少し違う起こし方ないのかなあ」
もそもそと重い体を動かす。
「はいは、1回でお願いしま~す」
投げキッスをしながら颯爽と診察室から出て行く。
「かえで!」
(あのやろー。まったく…油断も隙もあったもんじゃない)
恨めしそうに閉じられた入り口のドアを睨みつける。
「語尾を伸ばすな」
呆れた口調でもう1度両頬をなでつけ、伸びをする。
「ん…!」
狭い診察台に張り付いていた背中を無理矢理伸ばす。
「しっかし…」
懐かしい夢を見たものだ…と、頭をかきむしる。
(男なんか、頭の中みんなおんなじ。酒と、暴力と女…)
だから真実は、自分の男嫌いは父親のいないせいだと思っていた。
思えばあの「初体験」のせいで産婦人科医になることを決意したのだ。女はこうも男に力で「屈服」させられるのかと。ならば自分は、そんな痛めつけられた女である妊婦たちの砦として産婦人科医になってやろうと。
少々不純な動機ではあったが、今は立派な開業医だ。理屈の解った今では「尊い命」と「美しい奇跡」である妊婦のために尽力を注いでいる。
こんな夢を見たのは同窓会のせいか、「若かったなあ」と他人事のようにつぶやき、診察室を後にした。


まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します