生物学的経済学2:ケインズの道徳科学としての経済学

少し時間が空いたが、「生物学的経済学」の第2回。
分かりにくいです、面白くないです。でも本人は大真面目なんです(笑)

さて、前述のように、あのケインズは「経済学は道徳科学である」と考えていた。彼は盟友であるR・ハロッドにあてた手紙の中に、
「私は、経済学が道徳科学であることを強調したい。(それは)内省と価値判断を使用します。私が付け加えたいのは、経済学は動機と期待と心理的不確実性を取り扱うということです」と書いている。この「道徳科学としての経済学」という彼の主張も、もっともなものである。

なぜなら「経済学の父」と呼ばれ、あの「国富論」の著者であるアダム・スミスは、本来道徳哲学の学者であり、国富論以前に「道徳情操(感情)論」という道徳論の著書を書いて学名を高めていた人物だからだ。

彼はスコットランドのグラスゴー大学に勤務していたが、この大学はそもそも神学校であり、スミスの道徳哲学の講座は神学部の一部門だった。つまり、経済学はスミスの道徳哲学から生まれてきたものなのである。だからケインズが言う「道徳科学としての経済学」という主張はもっともなものであり、経済学の由来からすれば正統な主張ということになる。

そして、経済活動を含め、およそ社会的な活動においては道徳的な行動規範が要求されることは当然のことだ。そのような社会的な道徳律はすでに動物の世界にも存在する。だからダーウィンは次のように言っている。
「人間が社会的な動物である以上、自分の仲間に対して誠実であり、仲間の指導者に対して従順であるという特性を受け継いだということは確信してよいことである。こういった特性はほとんどすべての社会的な動物に普遍的に見られることなのだから」(「人類の起源」)
このダーウィンの言葉は、まるでスミスの「道徳情操論」の内容を繰り返しているかのようだ。

スミスが言うように、人間には[道徳情操(感情)」と呼ぶべき一種の感情があり、それは「共感(シンパシー)」や「同情」を引き起こすのである。それはいわば動物にとっての「本能」に近いものである。そして動物の社会では仲間内での争いが、本能によって抑制されていることが確かめられている。
「若干の食肉獣とチンパンジーでは、獲物をめぐっての度をすごした競争は起こらないようになっている。いうなれば。獲物の所有権が重んじられるのである。--道徳的な規範は、種の存続を保証する安全な方策なのである」(アイブル・アイベスフェルト)

サルの社会は階級社会だが、そこでも他人の所有権の尊重ということが見られるようだ。たとえば、階級の低い下っ端のサルが、なにかの偶然で大好物のえさを運よく手に入れたような場合、ほかのサルたちは、階級の高いサルたちも含めて、彼のエサを奪いとるようなことをしない。下級ザルのエサの所有権を尊重するかのように。これは「なんじ盗むことなかれ」という本能的な道徳律が行動を抑制しているのかもしれない。

だが、人間社会では、近年に至ってそのような本能に根ざすような道徳律が、機能不全を生じるようになってしまった。
「動物はその形態にしても行動にしても、環境状況が変われば適応不全に陥るといった、系統発生の過程を経て進化を遂げてきたのであり、そういった歴史的な負荷を負っている」(アイブル・アイベスフェルト)ということである。
実際、人間にとっての環境状況である社会そのものが激変してしまったのだ。スミスやダーウィンの時代とはもちろん、ケインズやウェルズの時代と比べても、人間社会のあり方は激変してしまっている。

例えば、盲腸は今では不要な器官だから、消滅に向かっているが、過去何世紀にもわたって盲腸炎の手術ができなかったために、何千人何万人もの人の死因になってきているだろう。この盲腸と同じように、「私たちの前もってプログラムされた道徳的な価値のいくつかは、すでに時代遅れのものになっていると考えることもできる」(アイブル・アイベスフェルト)のである。

(つづく)
(参考文献)
・伊藤光晴「現代に生きるケインズ」(岩波書店)
・アイブル・アイベスフェルト「比較行動学」(伊谷純一郎・美濃口坦共訳、みすず書房)
・コンラート・ローレンツ「動物行動学」(日高敏隆・丘直道訳、思索社)


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