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映画は、監督のものではない現実

映画は誰のものか。
映画は芸術であり、商品でもあり。
映画監督は映画の命であり、映画に無用な解雇対象でもある。
スタジオや出資者やプロデューサーやそもそも、観客のものだ、などという美談については誰かの記事を読んで欲しい。ここは、現実を語る場だ。

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太一(映画家):アーティスト業界情報局
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 準備と撮影と編集まで 』

“映画監督”というポジションに、どんなイメージがあるだろう。

映画監督は、映画の製作法に詳しいばかりであり実のところ、映画というマーケットにすら、詳しくない。ほぼ知らない、と言い切れる。

例外は、
スピルバーグ、ソダーバーグ、J J エイブラムス、リドリースコットと他に数名、それ以外で想い当たるのは全員、インディペンデントを主戦場とする映画監督たちだけ。インディペンデントの監督が業界を知っているのは、マーケットが小さい為だ。

プロデューサーか企画者を兼任していない限り映画監督は、準備と撮影と編集を終えると同時に、作品を手放すことになる。作品を完成させた映画監督が上映予定各国を回り、国際映画祭でインタビュー攻めに遭う場面も印象にあるかもしれないがあれは、プロモーション活動である。

その頃のプロデューサーとバイヤー、宣伝会社とプランナーがしのぎを削る“映画マーケットの本道”はもう、監督の立ち位置からは観えもしない。
監督は、企画の中に選任されて作品を完成させるまでの担当者だ。

『 映画監督に、編集権はない 』

作品の完成まで、監督でいられたならそのひとは立派だ。試写の評価次第では再編集が行われるが少なくとも、“自分の作品”を形にすることを成し遂げた逸材だ。なぜなら、映画監督に編集権限はなく、いつ、どんなタイミングにも解雇されるリスクがあるためだ。

わたしは1本、編集権を剥奪されたことがある。

わたし自身のポリシーに、「監督とプロデューサーは兼任すべきではない」ということがある。両者は役割の異なるそれぞれに、エンジンとハンドルなのだと想っている。役割には専念すべきでありそもそも、兼任は不可能だ。

そんな意思から、プロデューサーを雇った。その人物は未経験の若者だったが、託してみたわけだ。彼は権限を行使してわたしから撮影後の素材を取り上げ、編集から追い出した。

作品は、完成しなかった。
主演はトニー賞、エミー賞受賞者のアマンダ プラマー。

いまでは親しい彼女と笑い話にできる程度の余裕があるが当時、彼をプロデューサーに任命した自身の決断を、とても後悔している。わたしは生涯、全撮影を完了したにも関わらず作品を“映画”にしてあげられなかった十字架を、背負って生きる。

日本では、“まんが日本昔ばなし”の実写化を試みて、
11話、110分の「実写VFXファンタジーのオムニバス映画」を完成させた。
しかしこちらは、公開されなかった。

映画監督には、配給権限も無い。

『 それでも信じてこそ 』

映画監督の作業は複雑怪奇で、感性という方程式を武器に、絶対的なNGを回避しながら無限の可能性を選び抜く。知識は否定するためにあり、経験は超えるために使う。なるべく死なないように留意しつつ、作品を映画にすることを人生に優先する。

常識という認知バイアスの力は強大で、イマジネーションを切り刻む。
映画監督は如何なる場合にも平静を維持して、到達点を示し続ける。
それでも、悪夢に見舞われることはある。

だから何だというのか。
映画監督に最重要なたったひとつのスキルがあるとするならそれは、
「信じる」という意思だ。その先になにが待とうとも、成功はスタッフのもの、不運の責任はすべて監督個人のものだ。

映画監督はこの瞬間も、
スタッフを信じ、演者を信じ、脚本を信じ、己を信じる。

あぁ、ところで。
まだ日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際News:監督交代劇の末に興業で惨敗した映画「ジャスティス リーグ」、正規ザック スナイダー監督版誕生秘話を公開

ザック スナイダー監督の陰鬱な映像表現に不満を示した製作スタジオのワーナー ブラザーズは、痛快な演出で好評だったジョス ウェドン監督を雇用してスナイダー監督を指揮させた過去がある。やがてスナイダー監督は作品を残して現場を去り、ウェドン監督が後を継ぐ。スナイダー版の物語を90分カットしてテンポを上げ、脚本の70%を描き直し、元々の映像は10%しか残さず、結果、映画は興行に惨敗した。それは大惨事であり、ワーナー ブラザーズの明らかな大失態だ。公開を求める18万人以上の署名が集まった後に「ザック スナイダー監督版」は公開され、改善を証明した。スナイダー監督が語る。「ワーナーの幹部たちがわたしの自宅に“スナイダー版”を観に来たのは、“誰かのジャスティスリーグ”が公開されてから2年後の年末だった。私は質問してみたよ。せめて、この作品の最高のバージョンはどれなのか教えてくれないか?ってね」スナイダー監督はその場で、この映画を正しく完成させるために必要なプロセスを説明したという。「わたしは家に入り、この作品がファンにとってどんな意味を持つのかを伝え、提案したんだ。彼らは誰も観たことがなかったスナイダー版に、『よし!やろうじゃないか!』と言ってくれたよ」初回版が公開された2017年当時にワーナー ブラザーズの幹部たちがスナイダー版を観ていなかったことは異常事態に感じるが、当時のスタジオの運営がいかにお粗末だったかを物語っている。キャストからの評判まで悪いジョス ウェドン監督の雇用が、大きな間違いである。  - MAY 14, 2021 COMIC BOOK MOVIE -

『 編集後記:』

彼とは面識が無いのだが、ザック スナイダー監督、
映画の完成を信じ抜いた立派な監督だ。美しい。

映画監督たちは時に感情的で、強い言葉を選ぶ。
それは非常識で、社会のルールから逸脱しているように観えるだろう。
ならば、成功である。

映画、企画、ブランディングは“常識の先”にこそ息づくものであり、
非常識はマナー、ルールから逸脱することが目的。
感情的な表現は効果を求める演出であり、選ぶ言葉には刺す意図がある。

いかなる状況に置かれようと、公私において、
映画監督が取り乱し、感情的になることなど、無い。

語らないメッセージを画と音で表するべく、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

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