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distance(2001)/是枝 裕和

 この映画は、3年前に起きた新興宗教団体によって行われた大規模テロの加害者遺族たちが、最後にテロの実行犯たちが自ら命を絶った湖畔の近くのプレハブ小屋で一晩を過ごすというそれだけの映画だ。まあそのほかに細かい舞台設定だとか、展開があるわけだが、そういうのはあまりにもどうでもいいので説明はしない。さて、もう少し細かくあらすじを書いてみる。
 加害者遺族たちは毎年、テロの決行日に追悼をしにその湖畔へと向かう。しかし帰路に着くのに不可欠な車を盗まれてしまい、近辺にあった宗教団体の元アジトで一晩を過ごすこととなり、そこに元宗教団体の男も加わり、ささやかな思い出話と、途切れ途切れの回想が挿入される。カメラは終始ハンディ一台。カメラのブレも多く、マイキングもちゃんとしていないっぽく周囲の音声と役者のセリフがごっちゃになって聞き取りづらい。要はドキュメンタリー風な仕上がりということだ。
 それでさらに面白いのが、この作品はトータルの台本が役者に配られていないらしく、それぞれの役者にはその役者が喋る部分の台本しか渡されていない。だからかなりふんわりした感じで会話が進む。セリフは物語の筋を構成していくための要素ではなく、もっと余計な間や余計なセリフや語調を持ったままやんわりと、ぼんやりと、だらしなく散らばっていく。そしてしばしば気まずそうな妙な間が訪れ、その間にタバコを吸う、頭を掻く、手をこすり合わせる、髪をかきあげる、髭を触るという癖のような雑事のような諸々が差し挟まれる。新興宗教団体の大規模テロというのが、オウムのサリン事件をモチーフにしていることが明らかな形で表現されているので、この作品のテーマ自体は非常に重い。だがセリフな妙な間や、あらゆる癖やぎこちなさは「リアリティ」という表現の度合いを超えており、そのテーマの重さを間の抜けたものにしていく。しかし、このことを単にリアリティの不在として切ってしまうべきではないだろう。重要なのは、この物語自体がテロ決行から3年が経っているということだ。所々の間やぎこちなさに込められたリアリティとは、その3年分の記憶の忘却と距離感を含めたものなのかもしれない。事件当時のリアリティが忘却され、失われていくという、リアリティの消失というリアリティ。そう言ってしまうならこの映画の「ぎこちなさ」にはある種のリアリティがある。
 映画における過剰な「間の表現」のようなものが基本的に好きなのだけど、良かれ悪しかれ、そこには高尚な議論が入り込む余地が生まれてしまう。「間の表現」は好きでも、挑戦的な技法みたいなものを、きわめて学際的でマニアックな批評でほめそやす映画界の感じというのはあまり好きではない。そういう意味では、この映画の「間の表現」はもっとだらしがなくて、適当な感じで、好感を持つ。
 のちに是枝は、もっと強い形で90年代的なトラウマの表現とか「強烈なもの」の表現から距離を取っていくわけだが、後年の映画と違って、この映画には90年代の痕跡が残っている。そのようにして、モチーフ自体を90年代から借りて、それをずらすようにしてしか映画を撮れなかったのか、あえて撮らなかったのかはわからないが、その自立のしてなさが、まさに作中のお喋りや癖や雑事の温度によく似合っているなと思う。

 それから、このことは全然ここまでの話とは関係なのだけど、映画内の回想シーンの一つにこういうものがある。教団員になり、しばらく家を空けていた男が久しぶりに家に帰り書庫で本を読んでいる。それを見つけた男の妻は今まで何をしていたのか、と言いよる。だが男は付箋が沢山つけられた本を声を出して読みだす。男は宮沢賢治の詩の一節を読み上げ、「賢治が何を言いたかったのかやっとわかったんだよ!お前もわかるだろう?いいかよく聞くんだ!」その対応に怒りと諦めを滲ませながら妻は男を家から追い出す。
 このシーンを観てなんだか胸が苦しくなった。ぼくは多分、いろんな人にこの男みたいなことをしょっちゅうやっているな、と思いながら観ていた。全体的にぼんやりとした映画だからこそ、このシーンばかりが妙に心に残った。

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