幸せとは目的ではなく副産物だと思うようになった件について
人生の目的は幸せになることだ、と思っている人は多いと思う。
国を上手く運営できているかどうかを測る指標として、GDPとかではなく、GNH(Gross National Happiness)みたいなものを用いたらどうか、みたいな議論もずっとあると思う。
人生、幸せな方がいいのは間違いないし、GDPはあまり有意義なものを測定しているとは思わないので、基本的にはそういう議論には賛成だけど、最近、幸せ自体を目標にするのは間違っているのかなあと考えはじめた。
(「幸せ」という言葉の定義はここではおいておく。それを議論しはじめるときりがなくなってしまうので。)
その理由をいくつか考えてみた。
1.幸せは人工的に造り出せる
幸せは、特定の脳内ホルモンとかによって説明できる部分が大きいと思う。例えば、セロトニンとかオキシトシン、といった物質が脳内で分泌されると人は幸せを感じるらしい。
とすると、そういう脳内ホルモンの分泌を促す薬をひたすら飲み続ければ、幸せになれる。
国も、そういう薬を国民にばらまき続ければひたすら高いGNHを保ち続けることができる。
でも、それで良いんだろうか?
2.幸せは、追えば追うほど逃げていく
幸せは、蜃気楼みたいなもんで、追えば追うほど逃げていくんじゃないかと思ったりする。
例えば、おいしいご飯を食べたり買い物をしたりいい家に住んだり、っていう、いわゆる「幸せ」をもたらしそうなものを追いかけても、つかの間の幸せは得られるかもしれないけど、それに慣れたらそれが当たり前になって
さらに高級なご飯や家がないと幸せを感じられなくなる。これはいろんな心理学の実験でも明らかになっている。
幸せを目標にしても、そこには永遠に辿り着かない。
3.極上の幸せはFlowという心理状態の時に感じるらしいが、Flowに至るためには何か挑戦的な目標に集中して取り組んでいる時に訪れるらしい
最高の幸せは、Flow状態の時に訪れる、ということが言われていたりすると思う。
Flow状態に入るには、挑戦的な目標にむかって集中して取り組む必要がある。
ので、そもそも挑戦的な目標がない人はFlow状態には入れない。つまり最高の幸せも訪れない、ということになる。
幸せとは副産物だ。
ということで、結論は、幸せはそれ自体を追い求めるべきものではなく、何か別の目標を追い求めている時に副産物として感じるものだ、ということになる。
これは別に僕オリジナルのアイデアでもなんでもなくて、例えばZizekという哲学者がこの動画で言っていたりする。
今までの人生を思い返してもそうだなあと思う。何かを一生懸命頑張っているとき、さらに言えば、他人と一緒に何かを一生懸命頑張ってるときに最高に幸せだったような気がする。
さて
さて、ここで、次の疑問は、「やりたいことが見つからない、目標が見当たらない、頑張るべきものが見当たらない人はどうすればいいんですか?」ということだと思う。
多分、現代人にとってはこっちの方が大きな問題なんじゃないかと思う。前にも書いたように、「夢は何ですか?」「目標はなんですか?」と聞かれることに飽き飽きとしてる若者が最近は多いらしい。
それについては次の記事で考えてみようと思う。
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