分からないというスポット。

 前に読書会で「人それぞれだよね」といって終わることに虚しさを覚えるという話が出て、僕は心の中で同意していた。
 しかし一方で、人と人とは分かり合えるかというと、それはなかなか難しいとも思う。相手が本当のところ何を考えているのか・思っているのかなんて、分からない。そもそも話す方にしても自分のすべてを言語化することなどたぶんできない(しかしその努力はしたい)。
 「人それぞれ違うよね」といって解散することは虚しいけど、かといって「分かり合えるよね」というのもはばかられる。
 
 似たようなことで、なにか相談をもちかけたときに、(自分にとって)的外れなアドバイスをもらったときに虚しくなる。
 言っていることは正しいのかもしれないが、一般論的で、自分の今の状況とは関係のないところで話が進んでいたような感覚だ。
 分かりやすくするために少し口悪くいうと、分かったつもりで、アドバイスという助力をもらっても虚しくなるということだ。
 その一方で、話そこそこに「わからない」と言われても同じような感覚を覚える。

 こういう行き来は、わがままな悩みと捉えられ、自分で解決してよ、というところに落ち着くかもしれない。
 たしかに、相手に話が通じないとき、自分の話し方が悪かったのかと反省するし、その反省はしてみる価値はあるように思う。
 しかしその一方で、このような問いについて考え、共有しておくことも必要ではないかと思ったりもする。
 それは、人と人とが話すというのはどういうことなのだろうか、という問いだ。

 歩み寄る、寄り添う、分かり合えないまでも分かり合おうとする、さまざまな表現でコミュニケーションの目標や目的が啓蒙される。
 しかしそれはそう簡単なことではなく、自分がそうしていると思っていても相手からは違う印象をもって受け取られているのかもしれない。
 またまたあえて口悪くいうと、分かったと思っているのはあなたの方だけですよね、という具合に。
 歩み寄ろうとしてもその相手がどこにいるのか分からなければ歩み寄れない。
 だから早々に分かったことにすると、話を持ちかけた方は肩透かしにあったような感覚になるかもしれない。

 こうして考えてみると、相手のことを分かろうとする、互いに分かり合うというのはとても高い目標なのではないかというように思えてくる。
 もっというと、分かり合うという高すぎる目標を設定してしまうことで、それを達成するためにそこそこのところで「わかった」ということにするか、「人それぞれだよね」というピリオドを打つという結果になるのではないだろうか。
 それはある種の諦めや挫折であり、話を持ちかけた方からすると、自分の話なのに一方的に完了フラグを付けられたという風にも思うかもしれない。
 それならば「分からない」というところで漂っている方が幾分いいと思うのだ。

 では、分からないというところで漂っていることに意味はあるのか、人と人とが話すとはどういうことなのか。

 真剣に考えたうえでの「分からない」は、相手が自分の持ちかけた話をその相手のなかで考えてくれているということを意味する。
 すこし観念的な表現をすれば、自分を受け取ってもらっていることになる。
 その一方で、よく考えもせずに「わからない」と言うことは、受け取らずに弾き返すことを意味する。
 同様に、早々にアドバイスをするのは自分が今分かっている範囲で解釈をし放っているだけの可能性があるので、受け取ってはいるがその受け取ったものをすぐさま脇に置いてしまっていることになる。
 こうして比べると、「分からない」というところで漂っていることは、すくなくとも自分の持ちかけた話が相手に受け取られ、自分と相手との間に存在していることを意味する。
 だから虚しくは感じない。
 分からないというところで漂っているとき、〈私〉と〈あなた〉は存在している。

 もうひとつ、結論が出なければ意味がないのか、分からないという状態はダメなのかということについても考えておきたい。
 そんなことはない、という方面で考えてみる。
 一つには、相手の言っていることが分からなかったり有益な解決策が見つからなかったりしても、相手がどのような方面で考えているか・悩んでいるかは分かる。
 相手が抱える問い、というほど鋭いものでなくても、抱えているテーマや悩み、興味関心は分かる。これはそのまま相手のことをいくらかでも理解することにつながり、関係性が生まれることを意味する。
 二つには、分からないというものとはすなわち自分にとっての異物であり、それが持ち込まれることを意味する。
 これはもうすこし自己中心的な益かもしれないが、異物は〈世界〉を広げるきっかけとなる。異物を自分のなかに既にある認識に取り込もうとする過程で、必然的に自分のなかの認識が変わる。
 分からなかったからといって、得るものがなかったということではない。豊かさにつながるなにかは得ている。

 家族でさえ年中活動をともにすることはない今の社会において、分かり合うということを求めすぎることは重荷になる。
 しかしだからといって話すことに意味がないかというとそんなことはないと思う。
 話すことで関係性が生まれ、世界が広がる。
 逆にいうと、そういう話し方あるいは聴き方があるのではないかということを思う。


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