素晴らしき哉、人生
amazon primeで『素晴らしき哉、人生』という1947年の古い映画を観た。
1945年のクリスマスイブ[3]。ジョージ・ベイリー(ジェームズ・ステュアート)という男がニューヨーク州のベッドフォードフォールズという町で自殺を図ろうとしていた。周囲の人間の祈りが天国まで届き、翼をまだ持っていない二級天使のクラレンス(ヘンリー・トラヴァース)が翼を得るために彼を助ける使命を引き受けた。その準備として、クラレンスはそれまでのジョージの人生の回想を見せられることになった。
というあらすじで物語はスタートし、僕らは天使クラレンスの目線で主人公のこれまでの人生を共に振り返っていく。
そうすると、これまで人のために生きてきた主人公にクリスマスの夜の奇跡は起こるのか?という物語だ。(ざっくりしててすみません、ですが、ぜひコロナの機会に観てみてください。)
オチや物語に触れずに僕がこの映画を観て、じぶんが日常の中で思い込んでいたなぁと思える箇所があった。
それは主人公が「いい人」であると思って観ていたけれど、「いい人」の主人公は現代だとネガティブだと言われるような様々な感情を感じ、かつそれをきちんと外部に出していたのだ。
落ち込んだり、怒ったり、泣いたり、暴言を吐いたり、家族に当たり散らしたり、ケンカしたり、それこそ人間くさい主人公で、でもそれでも周りから許され、支えてもらい、生きている。
だからこそ主人公も人を許し、助けて、他人の為に生きている人になっているわけだ。
つまりじぶんが思い込んでいた「いい人」はこの主人公に比べたら、ロボットのように感情を感じていない、または感情を圧し殺している「いい人」で、他者から見たときの「いい人」を最優先にしている「いい人」なのだと気付けた。
もっと善し悪し関係なく、いろんな感情を感じていい。
そして時にはそういうものを外に出してみることもありなんだぜ、とこの主人公に学んだ。
もしかしたら僕たちの日常への閉塞感は、じぶんで感じてはいけない感情をたくさん作っているのかもなぁと思える作品でした。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
古い映画を観たときの心満たされる感覚は、人のほんとうに大切なことを描いているからなのですかね?
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