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偶然を信じる人

意味ないこと、無駄なこと、コスパの悪いことはしたくない。


よく聞くし、よく見ることば達だ。

インターネットやスマホ、SNSの登場によってあらゆる情報が手に入るようになったため、多くの行動はわざわざするもの(ショッピング、映画、人と会う、集まるなど)になったし、事前情報との一致を確認する作業になった。

しかしそれを否定する気はない。
事前に、どういう場所でどういうことをして、どういう人が来るかわかっているのはそこに集まる人にとって良いことしかないからだ。

けれどもそればかりだとどこかもったいないとも感じてしまう。
入ってきた情報を元に、意味も無駄もコスパも最初にある程度予測するもので、それが予測通り起こるか、得られるかが最大の関心事になってしまうからだ。


それを繰り返すことで、点もそこから線になる様も事前に想定して、やはりここでも確認作業になってしまっている。


しかし僕は生きていておもしろいと思うのは、想定していないところで、「点だったものが気付いたら線になっていた」という経験や記憶だと思う。



2018年の3月に投稿された僕のInstagramの投稿。
窓が好きだ、と書かれている。


この窓からは、景色がこのように見える。(別の日に訪れたときもやはり窓の写真を撮っていた。)


僕が20歳まで住んだマンションは両脇を線路に囲まれ、その線路が交差するところにあり、鉄道も車も走る大きな橋がある川縁のマンションだった。

なのでうるさいし、空気も良くないし、ベランダから見える景色は線路と道路がほとんどでつまらない景色だった。


ベランダには祖父のパイプ椅子が畳んで置いてあり、じぶんの部屋というのがなかった僕は夜中に時々その椅子に座り、心の真ん中に戻るために景色を眺めることがあった。

ある日なんだか泣けてくる夜があって、いつものベランダで涙ごしにいつもの景色を見ていると、世界がぼやけていて、その景色がいたく美しかったことを覚えている。


そのぼやけた景色をあの窓が再現していたから、僕はあの窓を、そしてあの窓を選んだ人とじぶんは仲良くなれそうだと思っていた。



その2ヶ月後、コルクラボというオンラインサロンに入っていた僕は佐渡島さん(https://twitter.com/sadycork?s=06)
が小説を書いて欲しい人がいるということで、カフェオーナーで映画やラジオもやっている井川さん(http://ikawayoshihiro.com/)という方と知り合う。

何かわからないけど、引っかかるものがあって、個人的にもカフェに顔を出すことが増え、それならばその方を知るメディアとしてラジオがあったので、そのラジオを聴いていると、ある日の放送であの窓の喫茶店をデザインしたのは自分である。
と話されていて、その瞬間僕だけの点たちが、僕だけの線になったのを感じた。


じぶんの言葉にならない引っかかっていた感覚や直感も信じられること。
ほんとうにただの偶然が線になったこと。
この二つの思いを経験すると、目の前の今を、つまり点を大切にできる。

そしてどれだけ予測してもそのとおりに繋げることが難しいことも、予測せずに繋がることのうれしさも学んだので、僕は事前情報を完璧に準備できる時代の準備しない余白を、意味がなくて無駄に見える点の可能性も信じて、偶然というものを信じていたいと思えた出来事の記憶でした。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
記憶の連なりこそが人だと僕は思っています。






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