見出し画像

【習作短編】雪と月と桜の夜に、僕は君を殺めよう

 如月の夜。粉雪舞い散る山道を、一人の少年が駆けている。
 彫りの深い顔つき、均整の取れた肉体。それらが秘める若さ、瑞々しさ、そして荒々しさを、詰襟の学生服で無理やり抑え込んでいる……そういった風情の少年は、名を雪代氷衛ゆきしろひょうえといった。
 氷衛は荒く息を吐きながら山路を駆け上がる。癖のある黒髪が揺れる。舞う粉雪が、氷衛の息に当てられて姿をなくしていく。
 風が舞う。粉雪が風に煽られ、不規則に舞い踊る。氷衛はその雪の欠片の中に、薄く色づく何かを見とがめる。
 氷衛の口元が、ぎりりと歪んだ。
 氷衛は風を巻きながら駆ける。彼の巻き起こした旋風が、周りで舞う粉雪をかき乱す。
 粉雪に混ざる薄色が、その割合を少しずつ増していく。
 厚い雪雲の隙間から、一瞬月光がさす。薄色を照らす。
 それは一枚の、桜の花びらであった。

「……やっと来たね。待ってたよ氷衛」
 山頂にたどり着いた氷衛を出迎えたのは、柔らかい声の持ち主であった。氷衛と同じ制服に細身を包み、学帽を肩の高さで切りそろえた白髪の上に乗せ、柔和な笑みを浮かべた少年――名を阿櫻詩郎あざくらしろうといった。
 詩郎の横には一本の巨木が立っていた。桜の木であった。幹の太さや枝ぶりの見事さから、長い年月を経た物のように思われた。
 雪舞う酷寒の夜空に、その桜は見事な花を咲かせていた。粉雪と混ざり合いながら舞う花びらが、月明かりを受けて薄く光っていた。美しくもあり、幻想的でもあり――そら恐ろしくもある眺めであった。
「……詩郎」
 先程まで荒らげていた呼吸を一瞬で整え、氷衛は詩郎を睨みつけた。射殺いころすような視線であった。
「……お前のその、横に立っている樹、それは」
「ああ」
 詩郎は左手を桜の幹に添わせ、優しく撫でるように動かす。
「無論、僕の力の顕現だよ」
 そう言って、詩郎は右手の人差し指を立てた。その指から、一本の細枝が伸びる。桜の枝であった。
 詩郎の瞳が、桜色に妖しく輝いた。

 雪代氷衛と阿櫻詩郎は「魔人」である。
 「魔人」とは、異能を顕現させた若者の俗称である。
 「顕現の日バースデイ」を境としてこの国に突如として現れた彼ら異能者は、その一人が「魔人」を自称したことからそのように呼び習わされることとなった。その者の人となりにかかわらず、であった。異能持たぬ身からすれば、彼ら彼女らは等しく「魔人」であった故である。
 「魔人」たちは能力を自覚したその瞬間から、お互いを不倶戴天の敵とみなし争い始めた。昨日まで顔も知らなかったような相手を、持てる力の限りを尽くして殺そうと欲した。
 なぜ争うのか。「魔人」たちは声を聞いていたからだ。「魔人」として覚醒してからずっと、意識の奥底から聞こえてくる声――「争え・・」という、その声を。
 声に従い、彼ら彼女らは殺し合い、殺し合い、殺し合った。「魔人」の誰もが、そのことを疑問に思わなかった。
 そして最後に、三人・・の「魔人」が生き残った。
 三人は「魔人」となる前、唯一無二の親友だった。
 幸いな、そして不思議なことに、「魔人」となってからも彼らの友情は変わらなかった。彼らはときに協力し、ときに反発し、だが心の底ではつながったまま、「魔人」同士の血戦を勝ち抜いてみせたのである。
 「倭国魔人争覇」――後にそう呼ばれた戦いに勝ち残った三人の「魔人」。雪代氷衛。阿櫻詩郎。そして。

「違う」
「何が?」
「俺が聞きたいのはそんなことじゃあない。俺が聞きたいのは『その桜は、一体誰の屍体から産み出したんだ』ってことだ」

 阿櫻詩郎は、「桜の魔人」である。
 彼の異能は、名を「憐紋櫻華れんもんおうか」といった。屍体に桜木の枝を産み付け、死者が残した情念を食らい育った櫻花をもって敵を討つ――そういう異能である。

 詩郎はわざとらしく溜息をついた。
「……わかってるくせに」
「お前の、口から、聞かせろと、言っているんだ」
 氷衛は、一言一言を区切るように口にした。
 阿櫻詩郎は笑みを――桜のように柔らかな笑みを崩さず答えた。
「わかってるくせに」
「まともに答える気がないってのか」
 氷衛は、詩郎に向けて一歩踏み出した。ざくりという音がした。
さくのヤツがここに、お前に会いに来たはずだ」
「来たよ」
「アイツは今どこに……いや」
 一際ひときわ強い風が吹いた。桜がざわめき、無数の花びらを散らせた。
「答えろ。お前、アイツをどうしやがった?」
「ふふん……わかってるくせに・・・・・・・・

「わかるか!」
 氷衛は吠えた。
「わかってたまるか!」
 氷衛の目が血走り、髪が逆立つ。怒気がそうさせるのだ。
 制服が、皮膚が、さやかな月光を受けて輝き出す。
 氷衛は詩郎に向けて足を踏み出した。踏み込んだ地面が、円形に白く染まっていく。そこに生えていた名も知れぬ草が、灰のようにボロボロと崩れ落ちる。

 雪代氷衛は、「氷の魔人」である。
 彼の異能は、名を「九相凍獄アイス・ナイン」といった。氷衛の憤怒に応じて威を増す極低温の空気、それより生み出される魔氷を自在に操り敵を討つ――そういう異能である。

「それを見なよ」
 詩郎は、桜の木の根元へと視線を向けた。地面に刺さっていたのは、櫻花の根元に最もふさわしくないものの一つ――月光を受けて鈍く輝く包丁であった。
「ここに僕を呼び出した彼は、そいつで僕に襲いかかってきたんだ。絶対に僕を殺してやるっていう、本気の目をしていたよ。だから殺した。正当防衛ってやつだ。で、せっかくなんで桜木にした」
 氷衛は目を見開く。
「あいつが――朔が、おまえを?」
「そうさ」

 月影つきかげ朔は、「月の魔人」であった。
 彼の異能は、名を「月光輪廻ダンシング・ウィズ・ザ・ムーンライト」といった。儚き月光を両の掌に集め、それをもってあらゆる傷病を癒す――そういう異能であった。

「なんだって、アイツはそんな」
「――わからない、とでも言いたいのかい? あきれるね。まあ、そんなことより」
 詩郎が右手を掲げた。指先が薄赤く光る。
 辺りを舞っていた無数の花びらが、空中でその動きを止める。
 舞い散る粉雪と、静止した花片。絵画のごとき光景であった。
怒りを薄めたね・・・・・・・、氷衛」
 詩郎が、氷衛を指さした。
「花嵐」
 ごう、という音とともに、無数の花片が氷衛に襲いかかった。
 氷衛は目を見張った。詩郎が自分に仕掛けてきた――その事実が信じられない、いや、信じたくないという思いが、一瞬の逡巡を生んだ。だが彼の「魔人」としての闘争本能が、迷いを即座に塗りつぶす。
メイル!」
 花片の奔流が届かんとする刹那、氷衛の肉体を厚い氷が包み込んでいく。「九相凍獄アイス・ナイン」の一、「メイル」――氷衛の全身を包み込む、分厚い氷の全身鎧プレート・メイル
 花片は薄刃となり、氷衛を切り刻まんと荒れ狂った。氷の鎧が削り取られ、白い氷片が火花のように舞い散っていく。
「ふふん、間一髪で防いだか。だけどご自慢の重装甲、僕の『花嵐』にどこまで耐えられるだろうね?」
「やめろ……やめろ詩郎!」
「やめないよ」
 詩郎は楽団の指揮者のように、両腕を優雅に振るう。赤い光が夜闇に軌跡を描き、それに合わせて薄紅の嵐が氷衛に襲いかかる。
「やめろお!」
「なぜ?」
「なぜって……俺たちには、戦う理由がないだろうが!」
「戦う理由が、ない?」
 詩郎は冷たく笑った。
「あるさ。君が目をそらしているだけだ」 
 詩郎の指揮が激しさを増していく。縦横無尽に夜闇を駆ける桜の濁流が、幾度となく氷衛に叩きつけられる――だが、氷の鎧に阻まれて、氷衛を傷つけるまでには至っていない。
「ふふん。ちまちま削っているだけでは、さすがにらちが明かなさそうだ」
 がしてあげよう。その鎧も、君の大事に抱えている建前も。それが彼の、月影朔の願いでもあるしね――そうつぶやくと、詩郎は天上の月に向けて右手を高々と振り上げた。氷衛を取り巻いていた花嵐が、詩郎の元へ集まっていく。桜色の渦が詩郎を囲み、彼の姿を氷衛から隠す。
「さて」
 詩郎は上に向けた左の手のひらから、指二本分ほどの太さの桜の枝を顕現させた。右手で枝を握り、無造作に振るった。
 枝の先に、一枚の桜の花びらが付着した。
 さらに振るう。
 花びらに、新たな花びらが付着する。
 詩郎は指揮棒を振るうがごとく、手にした枝を動かしていく。その軌道上に舞う花片が次々と付着していき、一本の紐を形づくる。
 やがて紐は縄に、縄は鎖に、そして鎖は――。

 氷衛の首筋に、怖気が走る。
鉄壁ウォール!」
 両手のひらを地面に叩きつける。分厚い氷の壁が氷衛の前に現出した。「九相凍獄アイス・ナイン」の一、「鉄壁ウォール」だ。
 その壁が、爆散した。
 飛来したそれ・・は、明らかに音の速さを超えていた。氷衛が反応できたのは、それがたまたま既知の攻撃だったからに過ぎない。
 「花嵐」の花片の勢いが弱まり、詩郎の姿があらわになる。
 詩郎は、手に薄紅色の鞭――桜の花びらで編まれた鞭だった――を持ち、恍惚の笑みを浮かべていた。
「『夜桜大蛇さくらおろち』、良く防いだね。さすがは氷衛」
 詩郎は鞭をしならせ、地面に軽く叩きつける。破裂するような音とともに、無数の桜片が宙に舞い上がり、舞い落ちる。
「だけど、『銀河疾走ギャラクシーエクスプレス斑鳩颯天いかるがはやての足を止め、『地獄極楽天地無双剣』宮本ベルセリーヌの二刀を叩き折り、なによりあの『超暴力アルトラ・ヴァイオレンス』たる禍津神桂子まがつかみかつらこの頬を切り裂いたこの『夜桜大蛇』――そう何度も止められるかな?」
「くっ……円盾シールド!」
 氷衛は己の中に走った戦慄――彼の命を再三に渡って救った感覚だ――に従い、己の異能を瞬時に発動する。中空に、十指に余る円形の氷塊が出現する。
 音が弾ける。鞭が着弾する音だ。氷塊が次々と爆散していく。氷衛は鋭くステップを踏む。立ち位置を変える。立っていた地面が弾け飛ぶ。そのまま氷衛は駆ける。円の軌道で駆ける。中心点は詩郎だ。駆けながら追加の氷塊を生成。即座に砕け散る。生成。爆散。生成。爆散。生成。爆散。
 生成が―—追いつかない!
 肩口に衝撃。「鎧」が、みしり・・・と歪む。
「まだ目を背けるのかい氷衛! いい加減、ちゃんと向き合いなよ!」
「だから何にだ! 何に向き合えってんだ!」
「さっきも言っただろう! 君の『戦う理由』にさ!」
 ――俺の、戦う、理由だと?
 氷衛に鞭が叩きつけられる。一撃、二撃。「鎧」がきしむ音がした。
「どうした氷衛!? そんなんじゃあ、桜の下の朔が泣いてしまうぞ! はやくボクの仇を取ってくれ・・・・・・・・・・・・・ってね!」
 氷衛が目を見開いた。
 三撃目が首筋に叩き込まれた。「鎧」が派手に砕け散る。氷衛を二度目の戦慄が襲う。あの鞭にかかれば、全身が急所のようなものだ。どこにもらっても、即死――死ぬ――死。
 逃れ得ぬ死を意識した瞬間。
 氷衛の全身を、戦慄とは別の感覚が走り抜けた――そうだ。こいつはもう戦友なんかじゃない。朔の仇だ。
 つまり殺してもかまわない男・・・・・・・・・・だ。
 だから殺さなければならない・・・・・・・・・・
散弾バレット――」
 氷衛は吠えた。両手を詩郎に向けて突き出す。中空に無数の矢が、弾が、針が、剣が、槍が―—氷製の凶器が顕現する。
氷雨レイン!」
 横凪の暴威が、詩郎に向けて襲いかかった。
「―—『花嵐』!」
 詩郎が叫ぶ。その声に、はじめて焦りの色がにじむ。桜の花弁が詩郎の周りを旋回、襲い掛かる氷弾を叩き落していく。叩き落されなかった氷刃が、詩郎の体をえぐり、貫き、切り裂いた。詩郎の顔が歪み、こらえきれぬ苦悶の声が漏れる。
 だが詩郎は、すぐさま不敵な表情を取り戻す。
「……ふふん! 流石さすが、流石だ氷衛! そしてわかったかい!? そいつが、そのが、君と僕が『戦う理由』さ!」

 そう言われた氷衛の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。全くの虚無だった。ただ、その瞳には純粋な意志が宿っていた。
 それは殺意。「魔人を殺す」という殺意。

 ――氷衛は、苦しんでいるんだ。毎日、毎晩。

 詩郎の脳裏に、朔の言葉が蘇る。

 ――彼は、氷衛はあらがっている。ボクらが「魔人」として覚醒したときから、頭の奥に響く甘い囁きに抗っている。
 ――「争え」という声に。「お前たちがやるべきことは唯一つ。魔人同士、脇目もふらずに殺し合え」という、その声に。
 ――もちろん氷衛だけじゃない。ボクもキミもだ。ともすれば親友にさえ向けられかねない殺意を、心の奥底に押さえつけてきた。
 ――今まではなんとか耐えられた。多分、目の前に戦うべき強大な敵が、他の「魔人」がいたからだろう。

双剣ツインブレード!」
 両手に氷刃をまとわせ、氷衛が鋭く踏み込んでくる。詩郎は「夜桜大蛇」で迎え撃つ。見えないはずの鞭打を、双剣が受け、弾き、いなしていく。

 ――だけど、キミも気づいているはずだ。
 ――「魔人」がボクら三人だけになった今、声はどんどん大きくなっていっている。今もそうだ。キミを、そして氷衛を殺せと、がなり立てている。

 白と薄紅の火花が、夜闇に舞う。両者の間合いが、少しずつ、少しずつ縮まっていく。氷衛にとっては必殺の、詩郎にとっては致命の間合いに。

 ――彼は、氷衛は強い。でもそれは、戦闘能力だけの話じゃない。
 ――強靭な心。決して折れない、絶対に曲がらない、不屈の魂。それが氷衛の強さの本質だ。
 ――だけど、だからこそだめなんだ。
 ――詩郎、「柳と楠」のたとえ話を知っているかい? 吹く風になすがままにされる栁と、真正面から堂々と立ち向かう楠。激しい嵐の夜、根元から倒れてしまったのはどちらだったか。

「詩郎ぉ!」
 氷衛が叫ぶ。
「氷衛ぇ!」
 詩郎が応える。

 ――この間、氷衛とキャンプに行ったんだ。楽しかったよ。山を歩いて、釣りをして、星を眺めて、同じテントで休んで。
 ――そのとき見てしまったんだ。ボクの横で寝ていた彼が、ガタガタと情けなく震える姿を。
 ――彼は震えを必死で抑えながら、しきりにこう呟いていた。
 ――詩郎は、朔は、俺の大事な友達だ。友達なんだ。だからお願いだ。
 ――頼むから俺にそんなことをさせないでくれ・・・・・・・・・・・・・、ってね。

 「夜桜大蛇」が唸る。
 決してかわせない完璧なタイミングで、鞭が叩き込まれる。

 ――翌朝、ボクは氷衛を問い詰めた。そして彼の苦しみを、絶望を知った。これ以上はもう抗しきれない・・・・・・・・という、彼の絶望を。
 ――だから、ボクは決意したんだ。

 叩き込まれたはずの「夜桜大蛇」が空を切る。
 氷衛が踏み込む速度は、詩郎の知るそれではなかった。

 ――詩郎。今からボクは、キミを殺す。
 ――抵抗してもいいし、しなくてもいい。でも抵抗するなら、ボクを殺す気でしてほしいな。というより、きっちり殺してほしいんだ・・・・・・・・・・・・
 ――そうすれば、どっちにしても裏切り者の友達殺しが、氷衛にとっての憎き仇が……氷衛が、心置きなく殺してもいい男・・・・・・・・・・・・が一人できあがるのだから。

 氷衛の双剣が、月光を浴びて光る。
 詩郎は間合いを取ろうとし、足が動かないことを――氷衛の異能の一、「トラップ」で自分の足が氷漬けにされていることを悟る。
 交錯する。まずは殺意が、次いで互いの「異能」が。
 鞭の軌道の内側まで入り込んだ氷衛が、雄叫びとともに氷剣を突き出す。狙いは喉元。避けられない速度と間合い。

 ――そんな顔しないで詩郎。キミにはほら、不敵に笑うのがお似合いだろ。

 詩郎は不敵に笑う。右手に持つ桜の枝を、手首の動きで震わせる。
 鞭がほどけ、桜花が舞い散る。
 舞い散る桜は幻想ゆめのようで、氷衛はほんの一瞬だけ見惚れてしまう。
 詩郎が桜の枝を突き出した。その先端には、ただ一片の桜の花びら。
 枝が、氷衛の喉に突き込まれた。
 桜片が、喉の内部で荒れ狂った。肉を、骨を、気道を、神経を、ことごとくを切り裂いていく。鮮血がほとばしる。詩郎の顔が、白髪が血に染まる。

 これで満足かい、朔。
 僕は上手いこと、氷衛の仇役をりきれたかな。

 氷衛の体が崩れ落ちていく。詩郎はそれを抱きとめる。
 詩郎の背に回された氷衛の両腕に、ほんの一瞬だけ力がこもり、そして抜けていく。

 だけどね、朔。君のシナリオじゃあ、僕が氷衛に負けておしまい、って想定だったのかもしれないが。
 氷衛は強い。本当に強い。わざと負けてやるなんて器用な真似ができないくらいに。
 だから、だからこんな結末に――。

 衝撃が詩郎の体を貫いた。

 詩郎は血を吐いた。自分の体に太い氷柱が打ち込まれる感覚は、思っていたよりおぞましいものであった。
 詩郎の体が崩れ落ちていく。抱きとめる手はなかった。詩郎はもう一度、軽く血を吐き出すと、氷衛を見上げた。
 自分の喉元を全て凍らせることで、肉を、骨を、気道を、神経を、ことごとくを無理やり繋ぎとめた氷衛の顔、そこに表情が戻ってきていた。

 ふふん。
 そんな顔をするなよ氷衛。
 これは仕方のないことなんだ。気に病むことはない……といっても、君には無理かもしれないが。
 まあ、他のやり方、もっと冴えたやり方はあったのかもしれない。でも僕ら三人にはこれしかなかった。
 そう思いたい。
 それにね、氷衛。もしかしたら、君はここで僕に殺されていたほうがマシだったかもしれないんだよ。
 僕の予想が当たっていれば、おそらく君はこの後、さらにろくでもない・・・・・・目に合うことになる。

 詩郎が膝をつく。目を閉じ、再び血を吐いた。
 その瞬間、詩郎の体から無数の枝が一斉に生えた。
 枝は絡まり幹となり、詩郎の体を覆っていく。新たな枝が生え、夜空に手を伸ばすように伸びていく。太い根が伸び、大地に食い込んでいく。
 やがて桜の巨木は、そこに立っていたもう一本の巨木――朔の死体から作られたそれと絡まり合うように枝を伸ばし、二つで一つの大樹となった。

 そういうわけで氷衛。僕はこうして、朔と二人で君を見守らせてもらうとするよ。ああ、もう人としての、意識が、薄れていく。ここまで、かな。
 最期に、一つだけ。
 すまなかったね、氷衛。
 殺そうとしておいてなんだけど、どうか生き抜いてくれ。

 風が吹く。桜の花びらが、夜空に舞う。
 氷衛は喉を焼くような痛みに耐えながら立っていた。痛みとは違う感覚のせいで、全身が震えていた。
 氷衛は手を握りしめると、目の前に立つ桜の巨木に拳を打ち込んだ。桜の樹が揺れ、花びらが散った。もう一発。二発。三発。
 四発目は弱々しい一撃だった。
 氷衛は樹に体を預け、額を押し付けた。涙が止まらなかったが、流れるに任せた。涙とともに、自分の中から何かが流れ落ちていく気がした。

『争え』
 不意に、氷衛の頭の中で声が響いた。
『争え』
 何度も聞いた、忌まわしい声。
 だが誰と。争うべき相手はもう殺し尽くしてしまったというのに。

『争え。最後の一人・・・・・と成り果てるまで』

 氷衛の心臓が、一際高い音を立てた。
 頭の中に、イメージが流れ込んでくる。
 それは人々の姿だった。人種も、性別も、年齢もさまざまだったが、彼ら彼女らにはたった一つの共通点があった――全員が恐るべき異能の持ち主、「魔人」であるという共通点が。
 「顕現の日」以来、世界のありとあらゆる場所で、自分たちと同じような闘争が行われていたのだということに、氷衛はそのとき初めて気づいた。
 なぜだ。なぜ気づかなかったのか。なぜそのことに思い至らなかったのか。氷衛は考えを巡らせ、やがて一つの結論にたどり着いた。
 隠されていたのか・・・・・・・・
 この国・・・の「魔人」、その最後の一人が勝ち残るときまで。
 何のために……そう考えたところで、氷衛は思考を無理やり打ち切った。
 ――多分、考えてもわからない。俺は詩郎や朔とは違って頭は良くないから。だけど、馬鹿な俺にもわかることが三つある。
 この戦いはまだまだ続くってこと。
 この戦いを続けさせたがっている、クソみたいな奴がいるってこと。
 そして、俺はこの戦いに負ける訳にはいかないってことだ。
 俺は戦う。戦って勝ち、生き残る。世界中の奴らと殺し合って、その最後の一人になってやる。
 そうしたら多分、この戦いの黒幕みたいなやつにお目にかかれる気がする。そいつはバカにしたような拍手をしながら、俺に声をかけるために現れるだろう。
 そこをぶん殴る。全力で、三人分の思いを込めて。
 それまでは負けられない。負けてたまるかよ。

 氷衛は桜の枝を一本手折ると、瞬時に凍らせた。薄い氷に包まれた桜の枝を、夜闇に掲げる。
 枝は月の光を浴びて、プリズムのように輝いた。
 氷衛は、枝を制服の胸ポケットにしまい歩き出す。最初の一歩は弱々しく、だが二歩目からは力を込めて。

 ――かつて「天地魔人争覇」と呼ばれる、全世界を巻き込む大乱があった。それは人類と「魔人」、そして「星の子」と呼ばれた者らとの争い。母なる大地における生存権を賭けた、苛烈な殺し合いであったという。
 その戦乱の中、一人の少年の記録が残されている。
 魔人、人外、魔王、そして魔神。いかなる者を相手にしても一歩も引かず、堂々と渡り合い――そして異国の地にて果てたという。
 素性も名前も分からない。ただ、彼が氷を操る異能の持ち主であったにも関わらず、「桜の魔人」と呼ばれたことだけが伝わっているのみである。
 その異名の由来は、誰も知らない。

【完】

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ