偽りの民主主義・・・リベラルデモクラシーが普遍的なわけではない。





































私は「民主主義」は普遍的な価値がある」とは思うが、それが西欧やそのカルト的信者の言う「リベラルデモクラシーだけが、民主主義でその精華」というのは、間違い。

中国は、ほぼ選挙権とかはない。でもネットで不満の一つでも書き込みしたら、それが経済や社会問題なら、共産党が察知してあわててその不満の解消に動き出す。
で、日本や西欧では、そんなことあるの?
選挙して、自分が勝つか、支持している奴を勝たせるかしないと、まず社会・国家が放置し続けて、日本では餓死者も出ている。

ロシアは、それなりに言論の自由もあるし、生活がヤバくなると確実に北欧ほどではないが、福祉が守ってくれる。
これも国家がロシア国民を守る責務を持ち実現する責任を負うってことでの「民主~ロシア国民が主人公」って意味の民主主義が機能している。
日本のように役所の言葉を書き間違えると、放置され、下手したら山上氏のような闇の生活再建をしなくてはならないようになる。
これが果たして「日本人が主人公」の「民主主義」なのだろうか?
「自分でいわないからだ」というが、学校教育でみっちりと、それが為せる教育を為しているわけではない。
「そうしたら、役所にナマケモノが大量に駆け込んで機能しなくなる」っていう反論もあるだろうが、そもそもそういう「奴隷教育」をしてきて、かつ社会を貧困に落とし込んでいるからなのだが、その辺は一切考慮に欠ける知的障碍者が、そういう考えをするのである。

 第2の理由は日本人の奴隷教育です。

 奴隷教育とは日本では当たり前の次のような教育です。
・良い大学に入り良い会社に入るために勉強する
・成績が良いと褒められ悪いと叱られる

 これは成績が良いと価値があり、悪いと価値がないという価値観で、実は奴隷に対する教育なのです。

本来の価値観は「存在だけで価値がある」です。

 日本人は「絆」は良いと思っていますが、元の意味は奴隷や動物を拘束する足かせ手かせで、マスクももともとは奴隷に着用させて個性を殺すためのものです。

ようするに、日本人が社会学的な知的障碍者に、奴隷教育と通俗道徳で改造されているのだ。

 歴史を遡ると、江戸時代の後期の民衆の間に広く定着していた「通俗道徳」的倫理観に注目することができます。江戸時代後期の商品経済の急速な浸透によって、民衆は商品経済に巻き込まれ、「家」まるごと没落の危機に直面しました。そうした事態に直面した民衆は、勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範を内面化し、それに従うことで家没落の危機を回避しようとしたのです。こうした勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範が「通俗道徳」と言われるものです。

 その後、この「通俗道徳」というイデオロギーが今日に至るまで、日本国民を縛り続けていくことになります。市場経済において、努力したにもかかわらず、失敗する人間は常に存在します。しかし、通俗道徳、すなわち「勤勉に働き、倹約に務め、努力するものは成功する」というイデオロギーを前提とすると、経済的な失敗者は、そのまま道徳的な敗北者になります。

生き馬の目を抜く万人の万人に対する戦争

 通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。

 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。

 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。

今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。

 「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。


人間として「まともでない」ように日本人は、学校教育・社会道徳で魔改造されているのに、民主主義など、木に魚を求めるような無理な話である。

また「奴隷教育」「通俗道徳」がなければ、天皇は存在できない。

天皇が存在しているのに、「日本は民主国家」など、さすが日本人は脳が破壊されているからな。


天皇家を殺し尽くして 日本人を救う

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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