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馬鹿帝国日本の死滅。主犯~天皇


上記文抜粋
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正真正銘の「論破王」孟子が実は超現代的な理由 古典の教養がないことは「致命的な弱点」になる

なぜ「無敵の人」が増え続けるのか、保守と革新は争うのか、人間性と能力は比例するのか。このたび上梓された大場一央氏の『武器としての「中国思想」』では、私たちの日常で起こっている出来事や、現代社会のホットな話題を切り口に、わかりやすく中国思想を解説している。

同書を『日本思想史新論』などの著書があり、政治経済思想を専門とする評論家・中野剛志氏が読み解く。

■瞬殺される古典不要説

昨今、教育改革が議論されるたびに、古典の必要性が論争になる。

例えば、「ひろゆき」こと西村博之氏は、自身のX(旧ツイッター)で「古文・漢文は、センター試験以降、全く使わない人が多数なので、『お金の貯め方』『生活保護、失業保険等の社会保障の取り方』『宗教』『PCスキル』の教育と入れ替えたほうが良い派です。古文漢文はやりたい人が学問としてやればいいだけで必須にする必要ないかと」と投稿していた。

 古典など学んでも、何の役にも立たないというわけだ。

 だが、そんな俗説を、大場一央氏著の新刊『武器としての「中国思想」』は瞬殺してしまう。

 本書の前半で解説される春秋戦国時代(前770~前221)の思想を例にとろう。人気漫画『キングダム』の舞台としても知られるこの時代は、思想界も乱世であり、「諸子百家」による「百家争鳴」の状態であった。

 まず「斉」という国では、名宰相管仲が、経済的利益の追求と自由競争を奨励して、経済発展を遂げ、同時に軍事強国となって台頭した。利益の追求を重視する価値観は「功利」と呼ばれ、経済力と軍事力による統治は「覇道」と呼ばれた。

 しかし、行き過ぎた「功利」は、弱肉強食と格差社会を生み出し、斉を弱体化させる結果となった。この「功利」と「覇道」、そしてその結末から、我々は、1980年代以降のアメリカの新自由主義と軍事覇権を連想せざるをえまい。

 こうした中で、「功利」と「覇道」に代わるべき思想が求められ、老子、荘子、荀子、墨子、そして孔子や孟子等、さまざまな思想家が登場した。中でも、孟子の思想は、極めて現代的で興味深い。ちなみに、孟子は、百家争鳴の当時にあって、向かうところ敵なしの天才的な論客だったらしい。正真正銘の「論破王」だったというわけだ。

 その孟子は、「覇道」に対抗して、「王道」を唱えた。著者の大場一央氏によれば、「王道」とは、まずは「徹底した民富育成」のことであり、最終的には、自律した道徳心のある「士」を育成することであった。

仁の政治である王道政治が実現されれば国土のすみずみまで人々が住み着いて共同体を作る。この共同体では人々がみずから働き、みずから人間関係を作っていくので、いきおい強い愛郷心ができる。これまでどこへ行っても食い詰めていた人々は、自分の故郷を文字通り死ぬ気で守ろうとするし、生活を与えてくれた国家を守ろうとするだろう。そうした国民のいる国は非常に強く、国民の積極的な参加によって敵国の侵略から国を守ることができる。(『武器としての「中国思想」』67頁~68頁)

■孟子の「王道」は西洋の「共和主義」

 このような孟子の思想は、吉田松陰にも大きな影響を与えたものであり、その意味では、明治維新の原動力となった思想の一つと言える。

 だが、それ以上に注目すべきは、大場氏が解説する孟子の共同体主義的な思想は、西洋思想の伝統における「共和主義(republicanism)」そのものだということである。

 共和主義とは、古代ギリシャ・ローマに端を発し、今日にまで強い影響を及ぼしている思想である。アメリカの建国理念はこの共和主義であるし、かの有名な政治哲学者マイケル・サンデルの思想のベースも共和主義である。新自由主義によって、拝金主義が蔓延し、格差が拡大して社会が荒廃した現代アメリカで、共和主義の伝統が思い出されようとしているのである。それは、「功利」と「覇道」の行き詰まりに際して、孟子が「王道」を唱えたのと、まるで同じではないか。

 どうやら思想というものは、古今東西の違いを超えて、同じ韻を踏むようだ。

 そうだとすると、古典思想という教養がないことは、致命的な弱点となる。混迷する時代においては、特にそうだ。

 例えば、故・安倍晋三元首相は、山口県出身ということもあって、吉田松陰を尊敬していたと言われている。だが、安倍政権の政策は、吉田松陰が傾倒した孟子の「王道」とは逆に、新自由主義という「功利」を追求し、アメリカの「覇道」に従属しようとするものではなかったか。

■財務次官より経済学を正しく理解していた「孟子」

 もう一つ、例を挙げておこう。

 2021年10月、月刊誌『文藝春秋』11月号において、当時、財務省の事務次官であった矢野康治氏が「財務次官、モノ申す「このままでは国家財政は破綻する」という論考を発表して話題となったことがあった。

矢野氏の主張は、景気回復よりも財政健全化を優先すべきだとし、歳出削減と消費増税を正当化するものであった。その議論の誤りについては、拙著『楽しく読むだけでアタマがキレッキレになる 奇跡の経済教室【大論争編】』で徹底的に論証したので、ここでは繰り返さないが、以下の引用を見てもらいたい。

財政を健全化するためには、金利ボーナス期間に、単年度収支の赤字幅を十二分に(正確に言えば、少なくとも「成長率-金利」の黒字幅以内にまで)縮めて行かねばなりません。そうすれば財政のさらなる悪化はなんとか回避できます。それが日本の目指すべきボトム・ライン(最低限の目標)であり、王道なのです。
 ここで矢野氏は「王道」という言葉を不用意に用いているが、大場氏の解説によれば、孟子の「王道」とは、「国民の資産、すなわち『民富』こそが国力であり、税収の多さ、すなわち『国富』は国力ではない」という議論だった。しかも孟子は「減税による一時的な税収の低下があっても国民所得上昇による長期的な税収の上昇をはかるべきだ」という趣旨の主張をすることもあったという。

 要するに、孟子は、矢野財務次官よりもはるかに、マクロ経済学的に正しい理解をしていたのであり、それこそが「王道」なのであった。ところが矢野氏は、「王道」という言葉を、その本来の意味とは逆の文脈において使ってしまったのだ。

 中国思想という武器をもたないエリートは、何の役にも立たないのである。

 裏を返すと中国思想は、確かに、現代においても十分に通用する武器になる。本書のタイトルに偽りはない。

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抜粋終わり

そもそも「天皇制国家」に王道は無い。

王道は、庶民を食わせてナンボのモノ。そもそも天皇には「日本人を守る責務」が無いから、王でも元首でもなく、詐欺師で犯罪者なのです。

まともに社会学・統治学を発展させれなかった日本は、いまだ詐欺師が象徴なのです。







所詮「人間」では、人間の本質をとらえることは永遠にできない。

故に釈迦は悟りを開かれた。で、人間&別の何か になったみたい。

なぜか?人間の知恵・認識法は、そもそも「無理がある」面があるのだ。

特に西欧のやり口は、それだけでやるとまずアウトである。


なぜに、明治政府は修験者を殺しまくったのか。なぜに仏像を神道=耶蘇カルトは破壊しまくって、戦争中にかこつけて寺院を破壊したのか。

それは天皇カルト~和風カトリック~バチカン教~邪教~日本人殺戮教にとっての脅威だったから。



肩書で先生とは言わない。

生まれでバラモン~修行者とは言わん by釈迦

天命に常非ず~天皇さえもさすらいぞする

肩書を信じ、生まれですべてが決まり、天命でなくカルト信仰がすべての鬼畜の島日本

まずは、カルト本尊天皇を根絶やしにして、 日本人復興の手始めにしましょう。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。


余談



天皇には歴史は無い。

あるのは、日本人の死体とそれを食らう天皇家とその閨閥だけである。


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