個々人の尊厳を踏みにじり続けていたのだから、天皇家も藤原氏も金井氏も根絶やしに成る。

【松本人志の週刊文春告発第5弾】松本人志の生々しい性加害の告発 マッサージ店での強制わいせつ 告発に次ぐ告発に次ぐ告発


より

上記文抜粋
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トラブル生じやすい「原作改変」問題 アニメ業界で起こっている「大きな変化」とは?

早川清一朗 の意見

アニメ化で「原作改変」は当たり前だった?

 2024年1月29日、『セクシー田中さん』ドラマ化の際の脚本トラブルの果てに、原作者である芦原妃名子先生が亡くなりました。あってはならない出来事でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 小説やマンガを原作とした映像作品が作られる時に、たびたび「原作改変」が議論になりますが、「アニメ化」に限っていえば、かつては大幅に原作の内容が改変されるのが当たり前でした。しかし15年ほど前から、「原作に忠実なアニメ」が増えてきています。当時、現場の片隅にいた筆者の視点から、何があったのかを書いてみたいと思います。

 原作を映像化する際に、内容が改変されることは珍しくありません。大きな理由としては媒体ごとに表現技法が異なる点があります。小説はテキストと挿絵、マンガは絵とセリフと擬音で構成されているのに対し、映像はセリフと映像で作られているからです。

 なお、それぞれが得意とするジャンルは異なっており、一例を挙げると10万人の大軍を表現するとき、小説なら「10万の大軍が編成された」でいいのですが、これをマンガの絵にするのはとてつもない手間がかかります。アニメで表現するのは不可能に近いといえるでしょう。映画であればエキストラや衣装などを集める、あるいは3DCGで描くという手段がありますが、いずれも大規模なプロジェクトとなります。簡単な話ではありません。

 また、物理的な理由のほかに、監督や脚本家は基本的にクリエイターであり、自分が作りたい物語を持っているものです。しかし近年はオリジナルの企画が通りにくく、メディアミックスによる原作作品の映像化がメインとなっています。そこで「原作つき」で企画を通し、監督や脚本家が原作サイドの意向と異なる改変を行う事例は、ドラマだけでなくアニメでも当たり前のように行われてきました。

 アニメ化の際に要望を無視された複数の原作者から話を聞いたことがありますが、みな一様に「アニメは一度も見たことがない」「アニメ化作家と呼ばれたくない」と、静かな怒りをため込んでいました。自分の子供のような作品を他人に勝手にいじられるのですから、たまったものではないのでしょう。

アニメはなぜ「原作重視」の流れになったのか?

 そんな時代もありましたが、近年のアニメは「原作重視」の流れが強くなっています。いつこの流れが始まったのかといえば、おおよそ2000年代後半となります。それ以前にも『マスター・キートン』や『蟲師』、『ブラックラグーン』など原作を重視する作品は存在していましたが、大きな流れとはなりませんでした。

 流れを作り出した作品は、OAD(コミック限定版ディスク)として製作された『魔法先生ネギま!』です。赤松健先生原作の『魔法先生ネギま!』は2回のTVアニメ化を果たしましたが、どちらも原作とは異なる展開で、ファンからは原作そのままの「ネギま!」が見たいという要望がたびたび出てきていました。

 原作そのままでやりたいと考えた際に、困るのが脚本家選びです。脚本家がクリエイティビティを発揮しようとして原作を改変し、〆切ギリギリまで提出を拒むようなことがあれば、思ったようには作れません。そこで選ばれたのが書籍の編集者でした。文章の扱いに慣れた編集者に脚本の作り方を学ばせ、脚本家として起用したのです。原作をもとに脚本を作るのは脚本家ではなく「脚色家」という職業になり、アメリカでは別の職業として考えられていますが、日本では特に分化されてはいません。

 このやり方は成功をおさめ、その後、『化物語』や『ソードアートオンライン』といった作品もほぼ同じやり方を踏襲し、大ヒットを連発しました。こうして「原作に忠実なアニメ」は需要も成功率も高いことが認識され、その後多くの作品が原作を重視した作りになっていったのです。

 もちろんトラブルが発生することはあり、原作者がアニメスタッフをないがしろにした結果、紆余曲折の果てにアニメの企画がなくなった……という事例も耳にしています。それでも筆者のゲーム仲間の作家さんたちが近年アニメ化を果たした際には、「文句のつけようもない脚本を出していただいた」「監督とはいつも映画の話をしてる」と、原作サイドと制作サイドが良好な関係を築いている話を聞いています。

 クリエイターとして、お互いに対するリスペクトを忘れない。それだけで、トラブルの大半は回避できるのではないでしょうか。

(早川清一朗)

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抜粋終わり

原作そのままでやりたいと考えた際に、困るのが脚本家選びです。脚本家がクリエイティビティを発揮しようとして原作を改変し、〆切ギリギリまで提出を拒むようなことがあれば、思ったようには作れません。そこで選ばれたのが書籍の編集者でした。文章の扱いに慣れた編集者に脚本の作り方を学ばせ、脚本家として起用したのです。原作をもとに脚本を作るのは脚本家ではなく「脚色家」という職業になり、アメリカでは別の職業として考えられていますが、日本では特に分化されてはいません。

このやり方は成功をおさめ、その後、『化物語』や『ソードアートオンライン』といった作品もほぼ同じやり方を踏襲し、大ヒットを連発しました。こうして「原作に忠実なアニメ」は需要も成功率も高いことが認識され、その後多くの作品が原作を重視した作りになっていったのです。

原作者の個人の尊厳を守ることが、トータルとして成功を産むのだ。

そのために「理不尽」な強者の横暴を防ぐシステムを作ることが、それが長期的には、個々人の利益と尊厳の維持に、有効なのである。

偉そうな坊さんでも、当然粛清される・・

より

上記文抜粋
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尼僧の叡敦(えいちょう)さんは、天台宗の寺で約14年にわたり僧侶から性暴力や恫喝などを繰り返し受けたとして、寺を所管する天台宗務庁に対し、問題の僧侶と加害行為の手助けをした大僧正の僧籍の剝奪を求める申立書を提出 ~「天台宗はこれを放置しておくほどの邪宗なのか?」

竹下雅敏氏からの情報です。

 読者の方からの情報提供です。尼僧の叡敦(えいちょう)さんは記者会見で、天台宗の寺で約14年にわたり僧侶から性暴力や恫喝などを繰り返し受けたとして、“寺を所管する天台宗務庁に対し、問題の僧侶と加害行為の手助けをした大僧正の僧籍の剝奪を求める申立書を提出した”ということです。
 FNNは「僧侶と出会うきっかけを作ったのは、2009年に叡敦さんの母親が他界した際に、その遺言で頼った親戚の大僧正だった。」と報じていますが、この親戚の大僧正は、“現在6人しかいない比叡山での千日回峰行を満行した「北嶺大行満大阿闍梨(ほくれいだいぎょうまんだいあじゃり)」の一人”だということなので、いずれネットの人肉検索で寺の名称と加害者の名前が特定されることでしょう。
 “続きはこちらから”の動画は記者会見の様子です。続く記事の内容から、加害者の僧侶は性行為や人格を否定するような言動や暴力、どう喝などを繰り返していたことが分かります。
 「天台宗はこれを放置しておくほどの邪宗なのか?」というのは、本質的な問いですね。地球上に邪宗ではなく、まともな宗教がどのくらいあるのかは疑問です。少なくとも日本で仏教と信じられている様々な宗派は、本来の意味での仏教とは全く異なります。密教はさらに異質で、これはもはや仏教とは言えない別の宗教です。
 「悟ってる人は僧侶じゃなく一般人に多いって研究ありますね」というコメントがありましたが、その通りです。
 2017年12月26日の記事で、「わずか9歳で、悟りを得ている男の子」を特集したスプートニクの記事を紹介しました。この男の子は「自分で自分をいじめなくなって 自分を大切にしはじめたら、僕をいじめるひとは居なくなった。」と言っていました。
 地球が平和になる最短コースの道筋は、“自分で自分をいじめなくなって、自分を大切にしはじめる”ことではないでしょうか。
 「結局どれだけ修行しようが人間は人間、欲をなくすことは不可能です。」というコメントがあります。これは「お腹がすいた」「眠たい」というのも欲ですから、その意味で正しいわけですが、貪欲はなくすことができます。
 さて、修行の大敵である「性欲」は、無くさなければならない貪欲なのでしょうか、それとも食欲や睡眠欲のように自然なものでしょうか。仏教はこれを煩悩として無くさなければならないものと見做しています。ここが誤りであったなら悲惨ですね。どれほど多くの無知と苦しみを宗教の名の下に、人類に植え付けていることか。
 密教の修行で「自分で自分をいじめる」ことを続ければ、例えば冒頭の動画の僧侶のように「エッチで悩んでいる人がおったら、代わりにお前がエッチしてやらんといかん」というような変態が生まれ、今度は周りの人々をいじめるようになるのです。こうしておかしな宗教が負の連鎖を作り出します。
 キリスト教も本質は同じです。誘惑に負けてリンゴを食べたことで、エデンの園から追い出されたという伝承になっているわけですから、本質的なところで「性欲」を否定しているのです。
 自然を否定しているわけですから、男性ホモルン(ホルモンともいう)の異常が起こるのでしょうか、一部のカトリックの司祭のように少年を愛する変態がたくさん出てきます。
 もうこういうことは止めて、“普通に結婚して夫婦で愛を育むために、性欲は自然(すなわち神)から与えられたとても大切なもの”という感覚になりませんかね。

(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「見えない牢屋に閉じ込め人格を破壊」僧侶が14年間にわたり性暴力繰り返すか 女性が会見で僧籍の剥奪求める

配信元)

YouTube 24/1/31


@calmare20022
織田信長に始末されるべき坊主だな

@ain4459
海外で通訳として日本の僧侶団体をお世話した事があります。位が高そうな年配のお坊さんが、ホテルのロビーのソファで寝そべって下っ端のお坊さんにマッサージさせ始めてビックリしました。さらに、現地の女の子連れて来れないのかと言い始め、耳を疑いました😅

@positiveplus9811
確か浄土真宗もお手伝いさんに手をつけて生まれた子供が跡取りになっていたな… 結局どれだけ修行しようが人間は人間、欲をなくすことは不可能です。

@takehase9896
天台宗はこれを放置しておくほどの邪宗なのか?


(続きはこちらから)

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抜粋終わり

ブラックボックス化すると、当然腐敗するのだ・・・

現在6人しかいない比叡山での千日回峰行を満行した「北嶺大行満大阿闍梨(ほくれいだいぎょうまんだいあじゃり)」の一人。

江戸時代までの感覚で、仮に考えてみると・・・

「そりゃ、行者としては偉いよね。でも僧侶としては、知らんけど」

だろうよね。

平安時代とかの記録でも「凄い修験者でも、性的にはだらしがない」って人が頻出している。

特異技能者が「徳」があるとは限らない。それを「宗教」「宗団」が、持ち上げて、人寄せパンダにしてしまえば、、、こういうことも当然に出てくる。

「妖は、徳に及ばない」ってこれは禅宗系の法力の強い坊さんの言葉。

自分の性欲の差配すらままならい人が、「僧侶」ってこりゃ、世界から「日本の仏教は、少し異端」ってされている
{日本の坊さんは、世界の仏教者の会議では、基本的に僧衣を着て出席できない。それは戒が不十分だから}
のも当然な話だろうね。

まあ宗教は「個々人の尊厳」も「集団の利欲」も「糞くらえ」な世界だが、それを社会で運用すると、当然そのようなことが個々の人間・対社会の関係では大事になる。

その辺の塩梅を「俗諦」「真諦」とかいうので見ているようだが。見る目が曇れば、当然誤るのだよね。

上記文抜粋
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「テレビが偉い」と未だ思っている…原作軽視はもはや慣習の実態!漫画家・芦原妃名子さんの死を経て問われる映像化の価値


昨年、ドラマ化された漫画「セクシー田中さん」の原作者である漫画家の芦原妃名子さんが急死した。亡くなった状況などから自殺とみられ、警察当局が死因や経緯を調べている。芦原さんはドラマの内容をめぐってトラブルがあったことを26日にSNSで告白。波紋を広げたことで28日に全文を削除していた。

ライターのトイアンナ氏は、これまでの“テレビ局の悪しき慣習”が最悪の結果を招いた、と嘆息する。

原作の改変を巡りゴタゴタがあった

「セクシー田中さん」の原作者で、漫画家の芦原妃名子さんが1月29日(月)に逝去された。遺書があることから、自殺と見られている。

同名作品は、2023年10月から12月まで日本テレビでドラマ化。これを巡っては、つい先日「原作の改変」を巡るゴタゴタがあった。ドラマは8話まで、専任の脚本家がいたが、9・10話で原作者の芦原さんが脚本担当に変更されている。脚本家は、自身のInstagramで「原作者たっての要望」で担当者変更になったこと、そして「残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」「この苦い経験を次へと生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせていきます」と綴った。

すなわち、この担当変更は脚本家にとって予想していないインシデントであった、ということになる。

芦原妃名子さんの死、そしてその後のバッシング

その後、原作者の芦原妃名子さんが自身のSNSへお詫びを掲載した。その内容を要約すると、以下の条件でドラマ化が実現していたという。

・ドラマの内容は漫画に忠実なあらすじ、セリフにすること

・忠実にならない場合は、原作者が加筆修正する

ところが、原作から大きくかけ離れた展開が予想されたことから、原作者が介入することとなったのである。この経緯を掲載したところ、脚本家へのバッシングが相次いだ。そのため、芦原妃名子さんは投稿を削除。先ほど書いた痛ましい出来事は、その後すぐのことだった。

死後、Xのトレンドは憤ったファンや、便乗したいだけの者が投稿した #脚本家のせい というキーワードで埋まり、さらなる脚本家への批判が続いている。

一般論として、脚本家は最終版の脚本を書けない

ここで前提をおさらいすると、テレビドラマなどの脚本家は、脚本を単独で書かせてもらえない。なぜなら、そこにはディレクター、監督、テレビ局、そして番組のスポンサー企業の意向が入るからだ。たたき台を脚本家が書き、それがどんどん改変されて公開される。

極端だが、スポンサー企業の一声で、方向性がすべて変わってしまうことすらある。民法ではCMとして資金を出すスポンサーがオーナーであり、スポンサーの意向第一になるからである。

だからといって、脚本家が「私のせいではない」と言えるわけでもない。というのも、一般的には脚本家と名乗る以上、すべての作品は「この人が脚本を書いた」と言われてしまう仕事でもあり、その職責を負う部分も含めるのが一般的だ。逆に、いい脚本を書いてもCMのスポンサーが褒められず、脚本家が評価されるのと、この現象は表裏一体である。

さらに、原作からの改変が必要とされる事情もある。ファン層が読んでくれる雑誌や単行本と、まっさらな状態で見ることとなるテレビドラマでは、そもそも前提知識が異なる。そして、テレビドラマだからこそウケる展開もある。

漫画家自身も、改変する必要性は知っていた。だが……

もっと言ってしまえば、漫画家がひとりで作品を作ることはない。編集者と一蓮托生、共にストーリーを話し合いながら原稿はつくられる。

「これだと読者はわからないから、前提を最初に示したほうがいい」

「子ども向けの漫画では、キャラにわかりやすい必殺技をつけるべき」

といった、より多くの読者に浸透させるためのアドバイスを編集者は行っている。ときには、編集者の一声でストーリーが大きく変わることもある。そして、漫画家なら誰もが、そのことを知っている。

したがって、本件でも原作者である芦原妃名子さんは、間違いなく「改変」の必要性を知っていた。それを踏まえてもなお、原作改変ストーリーを拒んだということは、これまでにメディアミックスで苦い思いをした経験があったり、周りが嫌な思いをしたりしたのだろうと思われる。

テレビ局が抱える“原作軽視”の慣習

本件は『セクシー田中さん』のドラマや、脚本家、あるいは原作者の問題というよりも、慣習として「原作者の意向は無視してもいい」とされがちな、業界の課題を浮き彫りにしている。

脚本家は、この件についてこうコメントした。

「(原作者がテレビの脚本家を降板させて自ら台本を執筆するのは)個人的にはあり得ないと思っています。どんな経緯があろうとです」

そう、テレビなら通常はありえない。なぜなら、脚本家もまた、ディレクター、監督、局、スポンサーに翻弄されるパーツのひとつだからだ。そして、パーツと原作者……つまりアーティストとは、根本的に性質が異なる。脚本家は会社員的にスポンサーのことを聞かねばならないが、漫画家をはじめとするアーティストはそうではない。単行本が売れなければ飢えて死ぬかもしれないが、会社員的な制約からは自由である。

だが、テレビの「改変」には、アーティストである原作者として看過できない部分が頻繁に混ざる。オリジナルキャラクターの追加、番外編と称したパラレルワールドへの転生、ストーリーの勝手なエンディング制作、芸能事務所から送り込まれた素人役者の棒読み演技。どれも、「原作レイプ」としてよく嘆かれる事象だ。

こういった改変を、よく「アニメ化・ドラマ化は作品を嫁にやったものとして諦めろ」と、従来は諭されてきた。というのも、テレビは「たとえ大幅な改変を加えても、原作を売れるようにしてあげられるもの」として、重宝されてきたからだ。

「テレビ様のおっしゃることだから」で済ませていい時代ではなくなった

たとえば、『鬼滅の刃』はアニメ化前、11巻で合計250万部ほどしか売れていなかった。それが、アニメ化のヒットと同時に1億5,000万部発行の快挙を遂げている。メディアミックスの質が重要なのは言うまでもないが、より大勢が見ているメディアに作品が広まることは、原作の売上にとっても重要なことがわかる。

それを踏まえ、テレビ局はストーリーやキャラクターを大幅にいじることを許容させてきたし、これまで当然のものとして受け入れられてきた。今回も、テレビの内容に原作者がしゃしゃり出てくるなんてありえない、といった姿勢を生んでしまったと考えられる。

ちなみに筆者もさまざまなテレビにゲスト出演しているが、「テレビに出られて嬉しいでしょう?」「芸能人に会えるなんてめったにないチャンスですよ」といった言葉をかけられたことがある。思わず「えっ……」という顔をしてしまった私に対し、そのスタッフさんも「えっ……?」と無言で見つめ合うこととなった。もちろん、丁寧な方も多数いる。ただ、それくらい、テレビ局の中にいる方の一部は、未だ「テレビが偉い」と思っているのだ。

クリエイターは繊細であり、繊細だからクリエイター

そして、それに耐えかねる原作者も当然いる。もともとクリエイターは繊細であり、繊細だからクリエイターになれる面がある。だが、テレビ局をはじめとするメディアは商業でやっている。つまり、売る責務がある。アートとエンタメ。このすり合わせをするため、話し合う義務は改変する側にある。

だが、「原作レイプはよくあることだよね」「まあまあ誰でも、被害にあうからさ」「それでもドラマ化しただけよかったんじゃない?」という言葉が、これまで多くのアーティストを蹂躙してきた。これからは「テレビ様のおっしゃることだから」で済ませていい時代ではなくなった。

今後は、原作を改変するならば作者との合意が必須であろう。そして、改変への合意が敵わないならば、スポンサーがゴーサインを出しても、放映停止になる可能性も出てくる。もし改変にいちいち原作者の首を突っ込まれたくないならば、そもそも原作ありきのドラマ、アニメをやめ、堂々とテレビオリジナル作品を作るべきだろう。

こおうして人柱が立つまでわからなかったことが、今回とてつもなく、悔しい。


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抜粋終わり

先の坊さんの件を含めて言うと、「繊細だから、出家を考える・仏法に興味を持つ」のですは。

それを粗末にするのは、「自分で自分の足の肉を食うようなモノ」なのですよな。

左伝で

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君子が、幼弱 卑賎 を虐待しないのは、天を畏敬するからである。

 天の威光を畏みつつ
 ここに福をば保ちゆく {詩経 周頌 我将}

とあるように、天を畏敬しなければ なにごとも保つことができぬのだ。 

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抜粋終わり

天を畏敬しない者の成功は続かないし、そのような宗教家など寝言戯言。

天皇だろうが、藤原氏だろうが、そのナラティブが崩壊し始めている。天を侮蔑しているからな。

そういえば、「金井・日吉氏が、天皇を作った」らしいが、製造責任者の癖に欠陥品を回収しない連中も、同罪だな。

日本は「天皇」が存在するのなら、消えてなくなる。そうならないと、人類が滅亡するから。

日本人が自力で「天皇」とそれにまつわる閨閥・信者を根絶やしできると、日本は世界を指導できる。これは意外と事実に近いのかもしれない。

天皇を消し去って 日本人を救う

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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