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「くらし」と海景、時間(雑記)

「海景」

昔の人と今の人とが同じ景色を見ることはできないか?という問いから始まった「海景」シリーズ。

では、「新しいもの」をさぐりつづけるモダニズムの時間感覚を知っている僕たちに、「海景」を通して「ふれる」ことのできる時間はどんなでしょうか。

古代の王朝的秩序の成立のさらに以前の、文明の原初の時間の観念はどのようなものであったか。ケニアのカムバ族のムビティ<MBITI>は、近代人の時間の観念と対比した部族社会の時間の観念についてこう語っている。近代人は<未来>を見て生きるが、アフリカ人は<ザマニ>を見て生きる。<ザマニ>とは、近代人の時間の観念であえて説明しようとするなら、はるかな過去であり、また未来であり、現在でもある。すべての存在がそこに由来しそこに還ってゆくような<時間の大洋(OCEAN OF TIME)>である、と。
『海景』 青幻舎 2015年

はるかな過去と未来と現在をふくむ、すべての存在が由来する<時間の大洋>

 この<ザマニ>と似た時間の観念は古代の日本にもあり、おそらく世界の大陸の至る所の古層に通底する時間の感覚ではないかと思われる。
 古代の日本ではこの時間の位相は、<トコ>あるいは<ヲチ>という音でよばれた。<トコ>は恒常性の位相を主として表現していたが、同じ感覚の二つの位相であったと考えられる。古代のある時期に中国から表意文字が導入されると、<ヲチ>には「越水」、「変水」という文字が充てられたように、この恒常し回帰する時間の位相は、水のイメージにおいて表象されていた。
同書

<時間の大洋>は日本にも世界の大陸の至る所にあったのではないか。

海景・・・二つに分かれた天空と大海である。画面を充溢する大気と水である。そのあらゆる微細な波形と、光と影との変幻である。もう一度肯定された、存在のリーラである。それは永劫に回帰する時間の、豊穣なる静止である。
同書

「海景」の<時間の大洋>に、僕たちは「ふれる」。

この差異から生ずる違和感・・、モダニズムにも<時間の大洋>にも、ピタッとこないどこかチグハグな僕たちの時間感覚・・、あなたはどちらに近しさを感じますか?

モダニズムの転回を感じ取らざるをえない人類増殖率の先鋭なるピーク後、杉本が昔の人と今の人とが同じ景色を見ることはできないか?という問いを立て、<時間の大洋>に接近していったのはただの偶然なのでしょうか。

「新しいもの」、「最も新しいもの」をいつも追い求めつづける呼吸自体が、いくらかは「古い」もののように感覚されはじめている。
同書

次回、「モード」の終わりを見てみたいと思います。

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