Taiyo Okamoto

あるがまま。 永遠の言葉。 安らぎの呼吸。

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かけがえのない時間

僕は2021年の誕生日(7月15日)に「行く」ことを決めた。 それから1年後、海外のアート&ファッション誌で取り上げられている自分を見つけた。 生き方を明確にしたと言ったらよりわかりやすいだろうか。 そして「決めた」と言っても、無理矢理ひねり出したものではなく、とても自然に出て来たことだった。 僕はそれから体を使って表現をするようになった。 体を使うという望みが自然と湧いてきたから。 しかしそれを思うと恐怖や不安が頭を過ぎった。 それこそが、自分がそれをやるべき何よりの証

    • もっと素直になっていい

      少し前の話になるのだが、 僕は自分のアート作品を、ニューヨークのタイムズスクエアの巨大スクリーンで披露するという体験をした。 今回はロンドンのアートギャラリーにその機会をいただいた。 そのギャラリーには2021年にオンラインで個展を企画していただいていた経緯があり、今回の機会は単純に面白そうだなと思ったので話を進めていった。 6月25日午後12時頃、僕はタイムズスクエアに到着した。 ちょうどニューヨークゲイプライドの日で、 タイムズスクエアはたくさんの人で賑わっていた。

      • 心の声

        お元気ですか? 久しぶりの投稿です。 実はYouTubeでラジオ風の投稿をし始めたので、 そちらに集中しておりました。 『太陽さんの しなやか・たいむ』というタイトルです。 なんとなく、ラジオのキャラクターみたいな感じで「太陽さんの」と付けています(笑) 昔NHKの教育番組でのっぽさんっていらっしゃいましたよね。 そんな感じ。 声を使って表現をするというのは、 2020年くらいから感じ取ってはいて、 それからインスタグラムで話してみたり、自分で詩を書いてそれを朗読したもの

        • しなやか

          先日Twitterのスペースでとても有意義な時間を過ごした。 Twitterで知り合って、よくお世話になっている詩人の高橋紋白(もんしろ)さんと、僕が長年付き合いのある声楽家の伊達路子さんとゆっくり会話を楽しんだ。 まず高橋さんに僕から「スペースで愛の話でもしましょう」とお声掛けをした。 高橋さんは、そういう突拍子もないことにもいつも快く乗ってくださる。 僕はだいたい日本時間土曜の22時にスペースを開いていることが多く、今回もまた土曜22時開始。 高橋さんとお話をする

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        かけがえのない時間

          愛に寄せて

          「愛はひとりでに起こる。あなたは何をする必要もない、それは自発的な開花だ。」 と、Oshoは言葉を残している。 瞑想という風土の中で、人は愛の状態を体験することができるということである。 僕自身、瞑想を続けていく過程で、これまで自分自身に起こったあらゆる出来事、直視したくない自分の中にあった感情、これだけは赦してはならないだろうと思っていたことなどを、それらもまた体験だったとして包み込むことができた。 愛に触れるとそのような体験をするのだろう。 「愛」と聞くだけで、

          愛に寄せて

          チョコレートマジック

          あなたはその時何を一体望むのか。 何を思い描いているのか。 それが何よりの鍵のように感じた。 僕は甘いものをちょっと摘んで満足するのが好きで、オーガニック系スーパーのトレーダージョーズ(Trader Joe's)に行くと、毎度のごとく購入するものがある。 それが写真のチョコレート。 ちょっと摘みたい僕にはとても丁度良い。 今週ニューヨークのチェルシー地区にあるトレーダージョーズに行ったので、そのチョコレートを買うつもりでいた。 いつも在庫がたくさんある商品だが、その日は全

          チョコレートマジック

          その先を。

          中学時代にお世話になった担任の先生にメールで遅い新年の挨拶を送った。 地元に帰ったときにはなるべく会いたい人。 今年で定年をお迎えになる。 先生は「60歳、中3担任、野球部監督、そして一組合員」と自分のことを言っていた。 僕には何もピンと来ない。 僕はそれらを通して彼を見ていないんだな。 肩書きが似合う方ではないから。 僕の担任であったという事実すらも、これだけ長い付き合いの中ではわりと些末なことのように感じている。 先生ももうきっと僕のことは「教え子」という

          その先を。

          それは、安堵。

          世界を見ていると 自分も何かやらなくてはいけないと 焦りが出てくる けれど僕が今思うのは 焦りを発端としてやり始めたことは 終わらない焦りの先にただある焦りの枝先になるということ 焦りから種を植えているわけだから 根っこが焦りなわけだから ね。 だから焦りの枝を増やして 手入れしなければいけないものを増やすのではなく 寂しさが湧いてくるかもしれないけれど その根を掘り出して それを手放す勇気 やらなくてはいけないものがなくなったソコを感じてみて

          それは、安堵。

          涙が止まらなかった

          ここ数日体調を崩して寝込んでいた。 急に体が思うように機能しなくなって、進めていたことも手を止めざるを得なくなった。 僕は基本健康管理はよくやっていて、ほとんど体調を崩すことはない。 今回寝込んだのも、たぶん2年ぶりくらい。 でも1度体調を崩すと数日その状態が持続する。 今回は微熱が数日続いた。 始めの日はかなりきつかった。 「あれやりたいんだけどな~」と頭の中が騒いでいたから。 2日目はただ手放した。 「もういいや」って。 そうすると理由もなくただただ涙が溢れてきた

          涙が止まらなかった

          間違いという種

          先日、久しぶりに明らかに「間違った」という体験をした。 それほど大きなことではなかったけれど。 しかし以前だったら、焦って間違いを即修正するという姿勢を取っていただろう。 けれど今回はまず落ち着いてみた。 自分の中で何が起こっているのか観察してみた。 なぜにそれを僕は間違いだと認識しているか。 確かにそれは3次元的には明らかに間違いだけれど。 なぜ起こったことに反発するのか。 なぜ間違うことはいけないことだと思っているのか。 そして、ひとまず昼寝をした。 それを放った

          間違いという種

          恐怖は魔法の扉

          恐怖が久しぶりに上がってきた。 前回紹介した『青いトスカーナ』というエディトリアルフォトがとても満足のいくものだったから。 『青いトスカーナ』は、実は僕のインスタグラムで展開していた『イタリア3部作』の第2部だった。 第1部『花と永遠の中で』 第2部『青いトスカーナ』 と来て、「さて第3部はどうするか?」というところでしばらく止まっていた。 先に3部構成になることを決めていたし、僕も素直にそれはやりたいと思っていた。 全て違うテイストの作品にしたかったのと、『青いト

          恐怖は魔法の扉

          もう何も疑うな Part.2

          前回の記事では、ローマで行きたかったレストランが目の前に現れて来てくれたことについて書いたけれど、今度は場所をフィレンツェに移して話を進めていこうと思う。 フィレンツェはトスカーナ地方にある街で、街ごとユネスコの世界遺産に指定されている。 周りは美しい丘陵地で絶景が広がっていて、「トスカーナ」と検索すれば、だいたい高原に細長い杉の木や葡萄畑のある景色を見ることができるはず。 僕もトスカーナと聞くとそんな景色を思い浮かべていたので、そこで写真の撮影でもしたいなと思っていた。

          もう何も疑うな Part.2

          もう何も疑うな

          5月はイタリアに行っていた。 僕はイタリアに行くのは初めてで、ローマに2日ほど滞在し、1週間を友人が住んでいるフィレンツェで過ごした。 イタリアは子供の頃から何だか惹かれる土地だった。 20代の時にもなぜかフィレンツェに移住を考えていたけれど、決心が付かずニューヨークに留まっていた。 だからやっと行けた土地だった。 けれど本当はタイミングから何から全てが完璧だった。 イタリアではのんびり過ごせたけれど、自分の深い部分を浄化してくれるようなことがいくつかあったから。 このタ

          もう何も疑うな

          「自分」という枠からの解放

          僕はインスタグラム上で、デジタル写真で構成するグリッドコラージュを展示しています。簡単に言うと、マス目を使って遊んでいるということです。 「こんなことがあった」という日々の記録のような形でインスタグラムを使っている人も多いと思います。またアーティストであれば、自分の作品を紹介する手段として使っている人も多いと思います。僕も以前はそうしていましたが、去年から使い方をガラリと変えました。 今では僕はシンプルに自分の表現にインスタグラムは使っていますので、宣伝用途ではありません

          「自分」という枠からの解放

          暇は贅沢

          最近自分の思考を観察していると、気づいたことがありました。 それは 隙間が空くと、思考が話し始める ということ。 本来であれば、暇というのは贅沢な時間であっても良いのです。 暇があることを罪悪のように感じる必要はありません。 暇をただ堪能し、くつろいでいれば良いのです。 のんびり優雅にできることを、ありがたく感じていれば良いのです。 しかし、僕は大人になっていく過程で、ダラダラしていると怒られるという経験をしました。 これをお読みになられている人の中にも同じような経験

          作品というよりも愛

          僕は「これが僕の作品です」というスタンスから抜けてとても自由になりました。 アーティスト活動を始めた当初はエゴが出て来やすく、「僕の作品を見てください」「世界に僕の作品を見せてやろう」、というような気持ちが湧き上がって来たものでした。 自分のエネルギーも時間もかけた作品を見て欲しいと思うのです。 作品を見て評価してほしいと願うのです。 その願いは、外に意識を向けていることから来るものです。 自分で自分のことを評価していると、実は人の評価は気になりません。 もうすでに満ちて

          作品というよりも愛