見出し画像

13章 君が袖降る(1)

これまでの話

イチョウのザワザワ病院での左膝手術、右膝は不手術で退院したの経緯は、これまで縷々るる述べて来た。
その後、左膝は順調に回復したが、残された右膝の痛みと、腰から来る左脚外側の夜間疼痛のため、イチョウは、手術後もザワザワ病院へ通う日々が続いた。
月2回、医師の診察と週1回のリハビリ通院を継続している。
浅澤医師は、診察の度に
「85歳までに、右膝を手術しましょう」
と勧める。
リハビリの担当は、ヨシキタPT(PT:理学療法士)である。


手術から1年経った頃

3月下旬、朝から冷たい風が吹いていた。
ヨシキタPTは、午前ラストの施術を終え、イチョウの後ろ姿を見送った。
午後から入院棟のPT代行のため、隣棟ヘと向かった。
「そうだった、イチョウさん大丈夫かな」
家の都合で、来週から2週間、火曜公休シフトだと考えながら廊下を歩いていた。

一方、イチョウは、リハ後、会計を済ませ、病院玄関の外に出て寒空の元、帰りのタクシーを待った。
イチョウは、薄紫の春コートに黒リュックを背負い、杖を突き、ヨタッとしばらく立っていた。


なぜ、寒空の元、イチョウが外に出ていたか

話は長くなるが、しばしお付合い願いたい。

イチョウは毎週火曜に通院。ヨシキタPTの公休日の関係で、その日は、たまの木曜であった。
イチョウは気づいていないが、その木曜のせいで、実は2つ、いつもと違う出来事が生じていた。

1つ目、木曜は、出張受付ヒラカワ職員の宿直明けで、午前11時に仕事を上がっていた事。
会計を終えたイチョウが、正面玄関に戻ると、いつもの出張受付の様子が一変していた。
ヒラカワ職員の姿はなく、体温測定器も問診票もない。
いつもならイチョウは、パイプ椅子を利用しYYタクシー会社に電話し、タクシーを待つ。しかし今日は記入台とパイプ椅子も消えている。仕方なく、少し奥へ戻り、待合ホールのソファに座り、YYタクシーに電話する事にした。このソファは低い上に柔らかい。
実にイチョウの膝と腰に負担を掛ける代物であった。
また、待合ホールからは、入って来るタクシーが見えず不便であった。

2つ目は、迎車依頼のYYタクシーの電話に出たのがスミレ配車係であった事。馴染みのタンポポさんなら
「10分後にお迎えに上がります」
と待ち時間まで親切に知らせてもらえるが、スミレさんは
「承知しました、それではザワザワ病院にお迎えにあがります」
とだけ丁寧に伝え電話を切った。

イチョウは、待ち合いホールの悩ましいソファにポツンと座った。
(待ち時間はいつもと同じで10分ぐらい? )
午前外来は既に終了し人影もなく薄暗い。
(何やら落ち着かない)
いつタクシーが来るかわからないので早めに外で待つ事にした。よいしょと立ち上がり、ヨタヨタと外に出た。しばらく立っているといささか脚が辛くなって来る。なかなか車は来ず、薄いコートを羽織っただけの体が冷えて来た。右手に杖、左手を玄関のガラス戸に体を預け、
(早く来い、早く来い)
と祈るようにタクシーを待っていた。

君が手を振る

その時、どこからか名前を呼ばれたような気がした。
振り返って待合ホールを見た。外来は終了し人はいない。
「??」
イチョウは不思議に思った。

しばらくすると、今度は、ハッキリと、右建物の上方から、
「イチョウさーん」
と声が降って来た。
見上げてみると、入院棟2階の窓から白いユニフォーム姿のヨシキタPTが動いて見える。彼は、窓を開け、大きな声で、
「イチョウさーん、イチョウさーん」
叫んで大きく手を振っていた。

ヨシキタPTは、この先2回代行になる事を「ごめん、ごめん」とどうにか必死で伝えるため、お詫びの「イチョウさーん、イチョウさーん」であったが、水田スイデン芸ウンとの出会い後、トンと、男おのこから声がかからないイチョウは、若い男性に名前を呼ばれてピンと背筋が伸びた。
しかも、彼は、大きく手を振っている。

(愛している?)

そのお手振りは、イチョウにとって「愛している」のサインそのもの。

しかし、周囲に人はいないものの、イチョウは恥ずかしく、
「人に見られたらどうすんの、カッコワルィ! しかもじゃかましい声! 」
イチョウは、小声で毒づいてみたものの内心では
(ちゃんと仕事しなさいよ)
と下の方で小さく手を振って、彼の呼び掛けに応えた。


イチョウは、帰りのタクシーの中でもまだ少しうわついた気分であった。患者一同の人気者ヨシキタPTから、両の手を大きく振って名前を呼ばれ、一瞬で天にも高く舞い上がるような気分になった。
(どのような思いがあれば、あのように大胆に手を振り、名前を呼ぶ行動が出来るであろうか)

イチョウは、はるか昔、どこかの野原で、長い袖を振って、愛を表現した句を思い出した。
そう、万葉集に出て来る額田王ぬかたのおおきみの歌である。


あかねさす 紫野行むらさきのゆ標野行しめのゆき 野守のもりは見ずや 君きみが袖振そでふる *


イチョウは、ヨシキタPTの臆面もない行動に衝撃を受け、いつのまにか、額田王ぬかたのおおきみの気分になっていた。
子供のように無邪気に2階から、大声を上げて両手を振っている姿が瞼に焼き付いた。







あかねさす 紫野行むらさきのゆ標野行しめのゆき 野守のもりは見ずや 君きみが袖振そでふる 

現代語訳
紫草の生えた野、標野しめのに行きながら 見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが袖を振るのを。(見張りの人がこれをみて、秘めた恋がばれてしまうじゃないの)

解説
この歌の前書きに、「大海人皇子おおあまのみこが蒲生野で狩りをした時に、額田王が詠んだ歌」と記されている。
額田王ぬかたのおおきみは飛鳥時代の歌人。大海人皇子おおあまのみこ(のちの天武天皇)と結婚して子供をもうけたが、この歌を詠んだ時には、大海人皇子とは別れ、天智天皇(大化の改新で有名な中大兄皇子。大海人皇子の兄)と恋人関係にあった。宴席の余興で額田王は、大海人皇子との昔の関係をネタにした額田王の遊び心です。

大海人皇子(天武天皇)のその時の返歌は、

紫のにほヘる妹いもを憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

現代訳
紫草のように色美しく映えているあなたの事をいやだと思うなら、どうしてあなたの事を恋い慕いましょうか、いやではないからこそ人妻なのに恋い慕うのです

出典:マナペディア

→(小説)笈の花かご #34
13章 君が袖降る(2) へ続く


(小説)笈の花かご #33 13章 君が袖降る(1)
をお読みいただきましてありがとうございました
2023年10月21日#1 連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
当コンテンツ内のテキスト、画等の無断転載・無断使用・無断引用はご遠慮ください。
Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.
この小説が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
下の 気に入ったらサポート から気軽にクリエイターの支援と
記事のオススメが可能です。
このnoteでは 気に入ったらサポートクリエイターへの応援大歓迎です。
ご支援は大切に、原稿用紙、鉛筆、取材などの執筆活動の一部にあてさせていただきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?