二〇二三年が終わってしまうその時に


 パラパラと乾いたような、そして湿り気を帯びたような小粒の雪のカケラが顔に当たって、それはそれは冷たい年末である。降り積もる雪は溶けることなく地面を覆い尽くして、人々が往来する靴底に踏みつけられる。雪は何度も踏みしめられていくにつれて、最終的には氷のように固められる。挙げ句の果てには歩くのも困難なほどに摩擦を失った氷のフィールドがあちらこちらにできている。あちらこちらでスリップして転びそうな人がいる。そういう人を見ていると自分もつい転びそうになる。実際転んでいる人がいる。自分も転んだりする。アスファルトよりも固められて摩擦抵抗のない氷の上で転ぶと、痛いどころの騒ぎではない。自分は積雪が始まった二日目で見事に転んでしまい、右手の指何本かを流血してしまった。笑えない雪国の生活である。

そしてこんな雪国で2023年が終わろうとしているのだから数奇な運命である。2023年を終えてから、当たり前のように2024年を出迎えようとしているのである。2024年を迎え入れるだなんて、よくもまあ生きてこられたものだと大袈裟に思う。こんな雪まみれの国で、まさしく数奇ともいえる場所で、21世紀が23年の歳月をかけてしまうその瞬間を狙っているのである。それにしても21世紀が23年経つということもまた非常に実感の乏しい限りである。大人の誰もが二言目には「時の流れは早い」と言ってしまうのは、もう阿吽の呼吸の一つくらいに聞き飽きたものであるのだが、それでもなお、「時の流れは早い」と言いたくなってしまうものである。

時の流れは早い。ついこの前まで自分もまた少年であった。脳みそはとても小さな井戸の中で飼い慣らされていた雨蛙だった。毎日ゲロゲロ鳴いていればそれなりに生きていける存在だった。それが成長していくに連れて、いつの間にかゲロゲロ鳴いているだけでは生きていけなくなった。ゲロゲロ鳴いているその行為自体に対価が発生しないとただ鳴いているだけに等しかった。このままでは餓死してしまうから仕方なく生きることに決めたのだ。井戸の外にのそりのそりと這い上がって昆虫とか食べてやることにした。昼間は鳥に食べられないように日陰で休んだ。夜になると涼しくなって、外に出てたくさん騒いだ。自分がゲロゲロと騒げば近くの蛙も騒ぎ始める。他の奴らが騒げば自分もゲロゲロ鳴いてしまう。常に影響を与えたり与えられたりしていくのが世の常だった。それなりに餌を食って、それなりに他の蛙どもと輪唱して、それなりに成長した。

そうやって生きてきた自分が、雪の国で生活をしてもう2024年だ。そろそろ餓死しても仕方ないと思いきやまだ生きている。もうそろそろいいんじゃないかと神様に聞いても「いやお前はまだだ」と断られる。じゃあこれからもゲロゲロ鳴いて餌を食って生き延びるしかないということらしい。この雪の国で、何を食って何を鳴けばいいのかも分かりやしない。じゃあこのインターネットで鳴いてやろうということで、またしばらく書くことにした。以前noteで書いていた時は、無理にでも毎日更新にこだわっていた節がある。今回はそういった無謀には身を委ねない。毎日更新という言葉に煽られてゲロゲロ吐き出したって、あまり気味のいいものが出てこないことはもうわかっている。大事なのは伝えたいことがちゃんと自分の音色として現れてくれるかだ。もう適当はやめようと思う。1日5000文字だとか、note毎日更新だとか、なんかそういうのはもういいのだ。

伝えたいことが、一体どれくらいのペース配分でできることなのかはまだ判別できない。それも含めて経験として今からやっていくしかないわけだ。一体、自分は何を伝えたくて、何を鳴きたくて生きているのか。本当に死ねないからただ生きているだけなのか。小説はいつできるのか。わからないことだらけだ。こんなわからないことだらけで、2023年を終えてしまいます。テレビもつけずに、一人だけの部屋で沈黙に耳を掴まれて、年を跨ぐのです。良いお年を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?