不安の年明け


2024年が始まったことの実感も非常に乏しく、どこかくたびれた様子で正月を見ている。過ぎていく毎日のその流れをうまく乗りこなしていくことがなんとなくむつかしい。それどころか時間という荒波は常に自分の体をいとも簡単に飲みこもうとしており、なんとか浮き上がっていくだけで精一杯だ。なんか大袈裟なことを書いている気がするが、この気持ちは案外本当のところにあって、多分自分はもう心も体も溺れてしまっているんだと思う。何を願っても願ったきりで、何を望んでも望んだきりだ。その先がないのだ。その先こそがいつも肝心な物語の要なのに、いつもそこでページは破られてしまっている。その繰り返しが人生だとすれば、ここまで虚しいことはないだろう。

今が2024年だというのがすでに怪しい。ここが自分の虚構じゃないと、一体どうすれば信じられるだろう。

新年早々、能登半島では震度7の強烈な地震が発生し、津波も発生した。二次災害の火災も生放送で放送されて、犠牲者も出た。新年にしてはかなり縁起の良くない出来事である。それとは別に、羽田空港は飛行機の衝突事故が発生した。犠牲者は出なかったが空港はしばらくの間運行が停止した。まるで世の中の出鼻がくじかれたようである。


華やかな一年のはじまりはどこに行ったのか。
不安が募っているのは自分の生活が質素だからではない気がする。世間をどう例えればいいのかはわからないが、そもそも日本国の上には不況という名の2文字が長年のしかかっている通常がある。日本のGDPはドイツに抜かれるのではという名目も予測されている。ロシアとウクライナが武力衝突してから物価は上昇を続け、そしてそれに伴わない人々の賃金がまるで質素である。だからなのか、どんなニュースを見ても、どんな街中を歩いても、まるでゆっくりと老化への道を辿っているみたいだ。テレビの映像は興味を駆り立てるだけ駆り立てて、本当に必要なのかも判別がつかない情報が行き交ってぶつかって乱れあっている。気を抜けば訳のわからないセールスの意識が芽生えて、自分の意志とはかけ離れた方向性のものに金銭を持っていかれそうである。実際そんな塩梅で小さな散財を繰り返しているきらいもある。求めていないストレスを抱えさせられて、その発散のために金を使っている。楽しくもない酒を飲んだりする。頼まれていないのに夜遊びをしたりもする。動けば金が減り、止まれば鬱憤は溜まっていく。自分達は身を守ればいいのか、それとも身を投げ出せばいいのか、その正体はどこにあるのか。

多分正体はどこにもない、誰も教えてくれない、いつまでも気づくことのない、そんな悪魔がいるだけだ。ずっとそばにいることだろう。自分達にできることは、なるべくはその悪魔の正体を意識しないこと。そうすることでしか日常を取り戻すことはできない。悪魔を取り払うために、思考は強大な迷路の中を彷徨う。けれどこれが自分だとははっきりわかっている。自分だからちゃんと迷っていて、ちゃんと不安である。一歩外に出れば不安になる。一周外を見渡せば不安になる。


最近はずっとそうだ。休日の今日も、ずっと不安があった。カフェに行って本を読んでも、山岡家で油の濃い味噌ラーメンを啜っても、どこか不安なのだ。金のこととか、人間のこととか、やりたいこととか、そんなことに対しての思いなのか。そのどれもが混じり合ってはっきりとしない懊悩の類だろうか。悪魔の正体とは懊悩の積み重ねだろうか。

どのみち、それでも進むしかないということだ。だから自分は書くことに決めた。書くことに決めたということが、自分の決めたことだった。自分の悪魔を取り払うための基礎的な動作だ。正気を保つための呼吸のようなものだ。たくさん誤魔化して、なかったことにして、それで普通の生き物に戻れるのだと信じきっている。それを信じることしかできないのが自分である。まるで殺してくれと叫んでいる。でもその中で自分は行きたいと叫んでいる。どっちだって本当のようで嘘である。日本でたくさんの不幸が生まれている。悔やんでも悔やみきれない世界の潮流である。自分はとことん世界を憎むと思う。世の中をいじらしく感じると思う。そうした目線で世の中を睨め付けては、これから先の出来事に注視する。




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