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虚しさの果ての平凡

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最近は野菜をたくさん摂ろうと何故か躍起になっている自分です。昔から身体が弱くて、なにかとすぐに腹を下したり、肌が荒れたり、喘息が出たりするような弱弱人間ですから、健康管理には注意しています。
それでもストレスを感じて暴飲暴食してしまったり、睡眠不足でイライラしたりと、そんなこんなで大人の不健康にまっしぐらにならぬように、意識を働かせているわけです。

できればもっとタフな人間に生まれたかったのですが、そんなないものねだりをしたところで、自分の身体が突然強くなったりするわけでもありませんし、虚しいながらも抵抗を続ける毎日です。

毎日を生きることを強いられているのは、まさしく全人類共通の課題でして、いやそれ以上に全生物の共通の生業ではあります。

その毎日が平凡な割合を多く占める人もいれば、仕事や家庭のせいで毎日が憂鬱の人もいますし、平和を脅かされる環境にて毎日を命懸けで乗り越えている人もいます。

私は割と平凡といえば平凡なのかもしれません。そこまで憂鬱な未来を見ているつもりもありませんし、できれば進めていきたい課題なども、割と前向きに捉えようとしています。

それでも、つい誰かの輝きに自分を照らし合わせてしまったりなんかして、自分の不甲斐なさを自覚してしまったりなど、そんな不器用もまた一興なのかもしれません。

まさしく私は平凡であります。
愛すべき平凡です。

その平凡を愛してこそ、毎日を有意義に過ごせているのかなと思ったりもします。

今の自分には至らない物事は無限にあって、そのどれもが面倒臭いことの塊のようだったりする。たとえば行動力がなかったり、上記のように身体が弱かったりと。
自分へ求めたいことのオンパレードで、ついあの世へとおさらばしたくなるくらいに不甲斐ないのです。

結局はそんな、自分に対する不満の積み重ねで死に至ってしまうことも全然あり得るはなしで、人が生きていくには、その逆を走るしかないのです。

その逆を走るということも、コンプレックスを片っ端から潰していくことでは決してありません。それでは芽生えてくる悩みの数には対抗できないでしょう。

なので意地でも、今の自分を好きになることです。ポンコツでどうしようもない大嫌いな自分を認めてあげることです。そんな自分を深く見ていくと、至って平凡であることが判明するでしょう。

まあそれでいいです。

そんな自分だから、日常に色んな花を咲かすことができますし、ずっと生きていくことができるのではないかと。

ふとそう考える夜中でした。

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