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「わたし」がある授業

 少し前に参加した教育シンポジウムで、ある中学校の先生がご自身の授業実践を発表していた。その後、「再現性」の話題になり、「僕の授業は、かなり再現性が低いと思います」と話していて、それを聞いた僕は、すごく学習科学的というか、構成主義的でステキだなと思った。

 ここでの「再現性が低い」は、「高度な実践で誰もマネできない」ということではなくて、「違う先生が違うクラスで同じことをやっても、同じ結果にはならない」ということ。なぜなら、そこには、先生にも生徒にも「わたし」を発揮する機会があり、「僕と彼ら・彼女らの間だからこそ生まれる相互作用」があるからだ。

 僕らはともすると、誰がやっても同じ結果が得られるような「再現性の高い実践」を求め、有り難がってしまう。そして教師は、「去年コレでうまくいったんだから、今年もコレで行けるだろう」と、実際に再現してしまう。でもそれなら、コンピューターが教えたって同じだ。

 「人と人との複雑な営み」である教育だからこそ、「わたし」があって、顔の見える、「僕と彼ら・彼女らの実践」に価値を置いていきたい。
 僕はそう、強く思う。

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