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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑭

【原因と結果がごちゃ混ぜの教育論議】

 お読みの方もおられるかもしれませんが、こんな記事があります。
 いわく「学校にデジタル教科書を導入したら、子どもたちが授業中に、ネットの動画やゲームに没頭するようになり、授業が成立しなくなった」とのこと。

 この記事を読んでいて、ある事を思い出しました。
 今からもう20年ぐらい前、当時、品川区の教育長だった、若月秀夫さんの講演を聞きに行きました。テーマは「学校選択制」について。そこで、会場から「学校選択制を導入すると、学校間の格差が生まれるので、導入すべきではない」との意見が出ました。これに対して若月さんは「それなら言いますけど、学校選択制が無ければ、学校間の格差は無いんですか?学校選択制を導入しなければ、学校間の格差は無くなるんですか?仮に学校選択制は置いておいたとして、学校間の格差を無くすために、教育行政や学校現場は、これまで何をやってきたんですか?」。会場からは「論点のすり替え」「逆ギレ」「暴論」といった意見が出ていました。

 一方で僕は、この話に妙に納得していました。前々回、個別最適で協働的な学びと絡めて、「理念と手法がごちゃ混ぜの教育論議」について書きましたが、同じように教育論議は、「原因と結果」もごちゃ混ぜにする傾向があるように感じています。

 学校選択制やデジタル教科書自体の適否はいったん置いておいて、往々にして(特にメディアの)教育論議では、「コレをやった結果こうなった。アラ大変。ホレ見たことか」という主張がされます。ただ、果たしてそれは本当にそうでしょうか?

 教育には、「ずっと前からそこにあるのに、みんなで見て見ぬフリをしている問題」が山ほどあります。こうした問題は、学校現場や子どもたちの間に確実に存在しているにも関わらず、光が当てられないので、みんなで気付かないフリをしています。しかし、何か新しい政策が導入されると、急にそこに光が当てられて、あたかもその政策によって新たに問題が生じたかのように、取り上げられます。実際には、それまでも存在していたものが、単に見えやすくなっただけなのに
 ちなみに、この手法(論点のすり替え)がメディアのみならず、教育行政、学校現場みんなにとって便利なのは、問題の原因を、この「新しい政策」に挿げ替えることによって、「これまでみんなで見て見ぬフリをしてきたこと」について、誰も責任を取らなくて済み、今後もそれに本気で向き合わなくて済むからです。往々にして、こうした問題というのは、根源的で本質的な課題で、容易には解決ができない、言ってしまえば教育関係者にとって「耳の痛い」問題です。ですので、できるならば(ただでさえ忙しいのに)あまり真剣には向き合いたくない。このため、「新しい政策」の責任にすることによって、その政策が撤回されれば、「よかったよかった」ということで、再び見て見ぬフリをすることができるわけです。実際には何も変わらず、今もそこに存在し続けているというのに

 話を冒頭の記事に戻してみましょう。
 確かに、デジタル教科書を導入したことによって、ネットの動画やゲームに没頭する子が出てきたかもしれません。しかし、では、この子たちはデジタル教科書を導入する前は、果たしてどうだったのか。導入する前は、授業に没頭していたのでしょうか。きっとそんなことはないでしょう。導入する前も、きっと授業は「上の空」だったに違いありません。でも、教師たちはそれを見て見ぬフリをしていた。ぼーっとしていたか寝ていたかで、他の子たちに迷惑をかけるわけでもなかったので、そのままにしていたんです。しかし、デジタル教科書が入ってきたら、動画やゲーム始めた。子どもたちも、ぼーっとしているよりは、動画やゲームをやった方が楽しいし、有効な時間の使い方だと思ったのでしょう。そうなると、授業に没頭していないのが「見える」ようになり、さらに他の「予備軍」だった子たちもそっちに流れ始めてしまったので、さすがに教師も注意せざるを得ない。そして、教師は「元々授業が壊れかけていた」という事実を認めたくないので、「デジタル教科書のせいで授業が壊れた」と主張するようになります。

 もちろん、デジタル教科書について言えば、学習効果とか子どもの健康上の問題とか、議論すべき論点はたくさんあり、それらを丁寧に潰していく必要はあると思います。ただ、そもそも教育の世界は、あまりにこの「原因と結果ごちゃ混ぜ」の論議が多い気がします。サイエンスとテクノロジーが発達した21世紀の議論としては、あまりに情緒的で前時代的だと感じるのは、僕だけでしょうか?

 最後に、お気付きの方も多いと思いますが、この論理は、今回のコロナでも山ほど見られた議論です。「コロナのせいで」とは言いますが、果たしてコロナの前はどうだったのか。コロナの前には、何の問題もなくて、コロナが新しい問題を運んできたのか。それとも、以前から存在していた問題が、コロナによって見えやすくなっただけなのか。With/Afterコロナの教育は、この議論から始めなくてはいけないように感じています。

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