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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑱

【学校を、もっともっと「自由な場」にするために】

 お陰様で、無事に大学院を卒業することができました(何とか全教科で最高評価をもらい、GPAも4.0で終えることができました)。3日後には、日本に帰国します。留学という「永遠に続いてほしいと思えるような地獄の毎日」も、いよいよ終わりを迎えます。
 この1年半、僕はここアメリカで、学習科学を、テクノロジーを、Learning Experience Designを、そして教育改革を学んできました。すべては、第1回に書いたように、学校を、もっともっと「自由な場」にし、子どもの自殺をゼロにするためでした。
 その終わりである今、考えているのは、一番最初に書いた教師についてです。

 社会からは不信の眼差しを向けられていますが、そして現に課題はいっぱいありますが、それでも僕は、(「個別最適化」の名のもとに分離された静かな教室ではなく)活き活きと子どもたちと教師が交流し協働する、そんな教室を夢見てしまいます。だから教師は、僕の目指す教育改革における「主人公」の一人なんです。

 僕の目指す改革は、第1回に書いた「3T(Teacher, Textbook, Test)からの脱却」です。脇役に追いやられるのでも、退場させられるのでもなく、主人公として、教師がこの改革を実行するには、どうしたらいいのでしょうか

 僕は、教師が教育改革を実施できないのは、単に「やりたくないから」ではないと考えています。むしろそれは、「これまでの自分自身の人生及び成功体験を否定したくない」という防衛本能から来るものであり、併せて、学校に根強く浸透する「保守的な学校文化」と、既存のアカウンタビリティシステム(学力調査や進学実績など)が、この抵抗感を補強(教師に対して、改革に着手しない「言い訳」を提供)していると考えます(それを裏付ける研究もあります)。

 これを乗り越え、教師が、萎縮せず、前向きに動き出すために必要なものは何か。僕はそれは「(新たな)3Tの保障」だと考えています。

 第一は、「対話(Talk)」です。
 教師は孤独です。基本、誰にも弱さを見せることなく、「教育」という壮大な営みに、一人で立ち向かわなくてはいけません。その上、メディアを見れば、教師を批判するような記事が連日溢れています。これに扇動(洗脳)された保護者たちは常に疑いの目を向け、時に無理難題を要求します。外から見ていると、「何でこんな当たり前のことも分からないんだろう」「何でこんな簡単なことができないんだろう」と思われることもあるでしょう。しかし、そこには何らかの、外からは見えない理由があるのかもしれません。
 すべては「知ること」から始まります。まずは、教師の声に耳を傾け、対話することが、自由な学校への扉を開きます。

 第二は、「成長の機会(Training)」です。
 以前ご紹介したA Revolution in One Classroom: The Case of Mrs. Oublier」という論文には、次のような一節が出てきます。

 州(教育行政)は、それをするよう教師たちに指示さえすれば、彼らは授業に関する抜本的な改革を実施するだろうと考えた。州(教育行政)は、教師たちに対して新たな教育方法を開発するよう要請したにもかかわらず、その要請自体は旧来型の指導スタイルで行われたのである。
 The state acted as though it assumed that fundamental instructional reform would occur if teachers were told to do it. Although the state exhorted teachers to devise a new pedagogy for their classes, it did so with an old pedagogy.

 「アクティブ・ラーニング」の必要性をレクチャースタイルで説明する教員研修。教育行政から発出される膨大なプランやビジョン。現場の実態からかけ離れた理論に関する学者のレクチャー。ほとんど読まれることのないグッドプラクティス集。
 僕はこんなものは「成長の機会」とは呼びません。
 そうではなく、僕が目指すのは、「Improvement Science」です。一過性ではなく、同様の課題を抱えるのみならず、生徒や地域の状況が近い学校の教師たちがチームとなり、必要に応じて外部の力も借りながら、データに基づいて継続して実践の改善に取り組んでいく。必要なのは、そういう場、つまり「ともに学び続けるコミュニティ」だと思うのです。

 最後、そして最も大切なのが「信頼(Trust)」です。
 教師に対してネガティブな印象をお持ちの皆さんは「信頼なんてできるかい!アイツらに任せたら何をしでかすか、分かりゃせんわ。しっかりルールで縛って、コントロールしないと!」と思われるかもしれません。しかしこれは、置き換えれば、子どもたちを指導する教師の言い分そのものです。
 僕は、「人は、信頼されて任された時に、真剣に考え、本気で行動する」と考えています。また、信頼は連鎖するものです。社会からの教育に対する信頼、教育行政からの管理職に対する信頼、管理職からの教師に対する信頼は、最終的には、教師からの子どもたちに対する信頼へと繋がっていきます
 とはいえ、これは、無条件の信頼ではありません。「教育をよくする」という共通のゴールに向けて対話を重ねる「Critical Friend」へと、関係性を転換していく必要があるのです。

(なお、この前提として、4番目のTである「時間(Time)」を教師たちが捻出できるよう、教育行政として支援することが必要であるのは言うまでもありません)

 「対話」「成長」「信頼」。
 想像してみてください。この3つが、大人たちと教師との間だけではなく、教師と子どもたちの間に存在していたら。「子どもたちとの対話」「子どもたちの成長の機会」「子どもたちへの信頼」、これが溢れる場こそ、自由な学校ではないでしょうか。

 そして言い換えれば、この3つは、民主主義の根幹でもあります。子どもたちが学校の中で、1人の主権者として信頼され、成長し、対話できるように。学校も社会の中で、1人の主権者として信頼され、成長し、対話できるように。

 日本に戻って、僕がしなくてはいけないこと。
 それは、「学校の民主化」(Democratization of Schools)です。

*来年(春~夏頃)、僕の初の単著が出版される予定です!
 詳細が決まり次第、note及びFacebookでお知らせします!

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