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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話①

【はじめに】自己紹介とキャリアゴール(子どもの自殺)

 はじめまして。元文部科学省のキャリア官僚で、広島県で教育行政官をしている寺田と申します。今は、世界一の公立大学である、アメリカはミシガン大学教育大学院の修士課程に留学しています。

 最初に簡単に自己紹介です。これまで、文部科学省で10年、広島県でも10年、基本的には「教育改革」の仕事をしてきました。国では、日本全体の教育改革のグランドデザインを描く仕事、広島では「学びの変革」と銘打った教育改革や、広島叡智学園という全寮制の公立中高一貫校のプロジェクトリーダーなどを担当してきました。

 そして、今はミシガン大学の教育大学院に留学しています。日本ではあまり知られていませんが、ミシガン大学は、世界No.1の公立大学で、僕が入学した教育大学院は、Curriculum and Instruction(カリキュラムと指導法)の分野で全米3位(2位がコロンビア大学、6位がスタンフォード大学)にランクインしています。
 また、修士課程では、Design and Technologies for Learning Across Culture and Contextsという、かなり変わったプログラムに在籍しています。日本語にすれば、「文化や文脈の違いを超えて、学びのためのデザインとテクノロジーを学ぶ」という感じでしょうか。特に、教育におけるテクノロジーの活用にフォーカスが当てられていて、日本でよく見られるような「学校でテクノロジーを使うべきか、使わないべきか」といった浅い議論ではなく、学習科学の知見などに基づき、「どのような場合に使うべきか。どのような場合には使うべきではないか。使う場合は、どのように使うべきか」という、一歩どころか数歩踏み込んだ議論が授業では行われています(このあたりの「教育×テクノロジー」の話も、いずれします)。

 ちなみに、今僕は40歳でして、アメリカには家族全員で来ています。3人の子どもたち(日本だと中2、小4、5歳)は、日本人学校ではなく、こちらの普通の公立中学校と小学校に通っています(子どもたちのクラスでは、いずれも唯一の日本人です)。このあたりの「ユーザー」として見えてきた日米の教育の違いについても、いずれ発信していきたいと思います。


 さて、ここまでお読みいただいて、「出た出た。小難しい教育論が始まるんでしょ」と思われた方がおられるかもしれません。大丈夫です。僕の投稿は、「世界で一番小難しくない教育改革のお話」を目指しています。そう思われた皆さんこそ、ぜひ読んでください。「教育改革」には、そんな皆さんの力が一番必要なんです。途中から有料記事にするような姑息なマネは絶対にしませんのでご安心ください(笑)。

 そして初回となる今回は、アメリカの話は少し置いておいて、まずは僕のキャリアゴールについて、お話させていただきたいと思います。これまで教育改革の仕事を中心にしてきたのは先に書いた通りですが、そもそも、「教育改革」と言ってもいろんな意味がありますよね。具体的には、僕が目指すのは、以下の3つの改革です。
① 教師中心(Teacher-centered)から、学習者中心(Learner-centered)に
② 教科書中心(Textbook-based)から、探究中心(Inquiry-based)に
③ テスト中心(Test-centered)から、プロセス中心(Process-centered)に
(これを僕は「3T(Teacher, Textbook, Test)からの脱却」と呼んでいます)


 では、どうしてこの改革が必要なんでしょうか。

 実は、僕には夢があります。それは、「子どもの自殺をゼロにする」ということ。時折、思い出したようにニュースでセンセーショナルに子どもの自殺が取り上げられますが、果たして去年(2020年)、どれぐらいの子どもたち(小中高校生)が日本で自殺したか、皆さんご存じですか?


 それは、499人です
(警察庁調べ)。


 つまり、1日1人、更に言えば2日に3人に近いペースで、子どもたちが自ら命を絶っているんです。これって異常じゃないですか?

 僕らが何の気なしに過ごしている毎日に、日本のどこかで1人か2人の子どもが、首を吊ったり、電車に飛び込んだりして、自殺している。このことを考えると、僕はいつも、胸が張り裂けそうな気持ちになります。
 だってまだ、たかだか数年か、10数年しか生きてきてないわけですよ?その間に、世の中に絶望してしまう。そんな世の中に誰がしたのか?それは、紛れもない、僕たち大人なわけです

 かつて、内村鑑三は、

「我々が死ぬときは、我々の生まれたときよりも、少しなりともこの世の中を善くして逝こうじゃないか」

と述べました。「自分が生まれたときよりも素晴らしい社会を、自分が死ぬときに生まれる子どもたちに残すこと」。これが教育の原点であり、根幹だと思うんです。

 この言葉に出会った時、僕は、自分の人生のゴールを、「子どもたちの自殺をゼロにすること」に設定しました。正直言って、国際的な学力調査における日本の順位がどうなったとか、国内の学力調査の広島の順位がどうなったとか、そんなことはどうでもいい。それよりも、子どもたちの自殺がゼロになれば、その方がよっぽど世界に誇れることだと思うんです。

 でも、実は、子どもたちの自殺は、減っていません。むしろ、昨年は、過去最高を記録してしまいました。


 僕は、「学校」というのは、一言で言えば、子どもたちに「安心」と「成長」を提供する場だと考えています。そして、この2つは並列ではありません。まず「安心」、その上での「成長」。だから、毎日1人の子どもが自殺しているという事実は、教育に携わる人たちにとって、究極の「不祥事」だと思うんです。これは教師だけではありません。親はもちろん、地域の人たちも。僕の「教育に携わる人」の定義は、「すべての大人」です。

 とはいえ、教師、そして教育行政に関わる者は、ある意味では「最後の砦」として、とりわけこの事実を重く受け止め、自分たちがすべきこと、そしてできることは何かを考えなくてはいけません。その結論が、僕にとっては、上に書いた3つの改革なのです。家にいるのがどんなにしんどくても、地域にも自分の居場所がなくても、学校に来れば安らげる。安心して、友達や先生と一緒に、成長できる。そんな場に、学校をしたいんです。


学校を、もっともっと、「自由な場」に。


 この記事では、この実現に向けた、僕の苦悩と苦闘、そしてここアメリカから見える日本の景色を書いていきます。僕の「夢」に共感してくださった皆さんが、ともに歩んでくださるのなら、これ以上の喜びはありません。

(ちなみに、ここで述べる意見は、広島県の見解でも文部科学省の見解でもなく、僕の個人的な意見です。公務員というのは、色々とややこしいもので…)

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