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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑫

【個別最適で協働的な学び】

 最初に、ぜひ以下のFacebookの投稿をお読みください。
 1年半前に書いたものですが、「個別最適な学び」に関する僕の基本的な考えは、ここから変わっていません。

今日は、「個別最適化された学び」と「ICTの活用」について、僕なりの考えを述べたいと思います。少し長くなりますが、お付き合いください。 今から少し前、上智大学の奈須正裕先生から連絡がありました。 「紙と鉛筆による個別最適化を研究している学...

Posted by Takuma Terada on Wednesday, September 9, 2020

 

今回は、この続編になります。
ではまず、以下の画像をご覧ください。

画像1

(出典:https://www.youtube.com/watch?v=jTH3ob1IRFo)


次に、以下の記事に掲載されている画像をご覧ください


 さて皆さん、上記の2つの画像は、本質的に同じだと思いますか?それとも、本質的に異なると思いますか?

 上の画像は、1950年代に、アメリカの心理学者、スキナーが開発した「ティーチング・マシン」というものです。ものすごーくざっくり言えば、「①問題が表示されて、②自分の答えを書いて、③ボタンを押すと正答が表示されて、④正解していたらレバーを回すと次の問題が表示される(以下繰り返し)」というものです。
 一方、下の画像は、AIドリルを活用した、2020年代の日本のクラス風景です。この間には、約70年間の隔たりがあります。

 今期、ミシガン大学教育大学院で、How People Learnという、学習科学+教育心理学の授業を取っているのですが、そこで、クラスメートとこんなやり取りがありました。

 僕「日本では、個別最適で協働的な学びというのが話題になっているんだけど…」
 クラスメート「要は、DifferentiationとCollaborative learningだよね。どっちも昔からある、大事な手法だよね」
 僕「どう思う?」
 クラスメート「…どう思う、って?『大事な手法』以外に何もないと思うけど」
 僕「日本では大きな議論になってるんだよね」
 クラスメート「待って。その議論は、生徒の何を実現するためのものなの?で、その目的を実現するために、そうした手法が有効だっていう、どんなエビデンス(証拠)があるの?そもそも、生徒たちの学びの姿は、どの『学習観』に基づくものなの?行動主義?認知主義?構成主義?それとも社会文化的アプローチ?
 僕「えーと…」
 教授「はーい、授業始めまーす」

 残念ながらここで会話は終わってしまったのですが、僕は、この質問に対する回答を持ち合わせていませんでした。

 「個別最適で協働的な学び」は、いったい何を目指すものなのか。そして、そのゴールを実現するために、他の手法と比べても有効なものであると断言できるのか。そうであるならば、その証拠は何か。そして何より、依って立つ学習観は何か。

 冒頭に書いた、スキナーのティーチング・マシンは、行動主義に基づく代表作です。要は、「報酬と罰則といった『刺激』によって、子どもの行動を変化させよう」という考え方です。スキナーは、学校のテストが、提出してから教師が採点して返ってくるまでに長い時間がかかることを問題視しました。ティーチング・マシンでは、即座に正解・不正解が分かるため、これが『刺激』として働きます。また、提出される問題は、簡単なものから難しいものへと、体系的に並んでいるため、自然にレベルアップしていくことが可能です。
 その後、こうした行動主義の考え方への反動で、「いや、学びというのは、子どもたちの頭の中で起きる、もっと複雑なプロセスなんじゃないか」という考えから認知主義が生まれ、さらに「子どもたちが、自分自身で意味を構築することが学びの本質なんじゃないか。また、それは、個人の中だけじゃなくて、もっと社会的な営みなんじゃないか」という考えが加わって、(社会)構成主義が生まれました。一方、「教育は、社会的不平等を拡大・再生産するんじゃなくて、それを改善・解消するエンジンになるべきだ」ということが提唱され、社会文化的アプローチが誕生します。
 ただ、どれも一長一短があり、どれかが万能ということはありません。また、DifferentiationやCollaborative learning(さらにはScaffolding)は、構成主義に基づく手法のひとつですが、他の手法と比べて絶対的に有効かと言えば、そうした確たる証拠もありません。

 日本の教育に関する議論は、ともすると、「理念と手法」をぐちゃぐちゃにして議論しているような気がします。「個別最適で協働的な学び」は、あくまで「手法」に関する議論であって、その前に「理念」を固めることが必要ではないでしょうか。もし仮に理念は既に固まっているのだとしたら(上記Facebookで書いたように、僕にはあまり固まっていないように見えますが)、では、「その実現のために個別最適で協働的な学びが何より有効だ」というエビデンスはあるのでしょうか。

 また、教育の議論は、美しくて誰も反対できない「マジックワード」に溢れた議論になりがちです。「個別最適で協働的な学び」。なんと美しいマジックワードなんでしょう。誰も反対できません。
 でも、こうした「マジックワード」が上から落ちてきて、苦しむのは他でもない学校現場です。広島の「学びの変革」を導入した当事者として、反省を込めて言いますが、「素晴らしい報告書ができたので、あとはよろしく」が、如何に現場を苦しめてきたことか

 理想論に基づく教育は大切ですが、現場の実態、子どもたちの実情を十分踏まえない理想論は、それを実行できる学校(教師)と、できない学校(教師)の間の格差を拡大します。そして、それを従順に受け入れられる子どもと、「それどころじゃない」子どもの間の格差を拡大します
 社会文化的アプローチは、こうしたエビデンスから生まれましたので、このことは歴史的に見て明らかです。

 行動主義が席巻した1950年代から70年。この間に、教育者、とりわけ教育行政は、何を学んできたのでしょうか。美しくなくて、マジックワードでもない、私たちの「学習観」「理念」、そして「エビデンス」が問われているような気がします

(なお、冒頭の2つの画像については、意見を聞いたクラスメートの全員が「ここだけ見れば、全く一緒」と答えました)

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