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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑪

【なぜ「教育改革」は難しいのか(その2)】

 それは、「教育改革者は、排他的にならざるを得ないから」です。

 排他的になりたくてなっているわけではありません。排他的にならざるを得ないのです。

 教育改革者は、基本的につるみます。「教育ムラ」という言葉がありますが、教育改革者は、「教育ムラ」の中で教育改革を進める人たちとつるむか、あるいは、「教育ムラ」のアンチテーゼとして、その外でつるみます。いずれにしても、結局同じような意見を持った人たちの集まりとなるので、その影響力は拡大せず、結果、「教育ムラ」を変革するほどの大きなムーブメントにはなりません

 では、なぜこのようなことが起こるのでしょうか?
 ここには5つの構造的な問題があります。

教育改革者と排他性_page-0001

 第一に、教育改革には、(既存の教育や教育行政にエビデンスが無いのと同様に)強固なエビデンスがありません。色々なデータはありますが、基本的には「結論ありき」(=要は、既存の教育の否定)で分析していますので、最終的には「それってあなたの主観ですよね?」といった考察になってしまいます。そしてこれを正当化する(誤魔化す?)ために「子どもたちのため」という、あいまいな表現を使うことになります。

 第二に、教育改革者は、孤独です。教育の世界の外から好き勝手言っているだけなら良いですが、教育の世界の中に身を置く教育改革者は、多くの教師や教育行政から、常に懐疑的・批判的な目で見られます。「理想論ばかり言っている」「現場の実態を知らない」「教壇に立っていないからあんなことが言える」という批判を、(教育者は基本善人で小心者なので)直接的には言われませんが、間接的に言われ続けることになります。一部の改革派の教師からは「同僚からはなかなか分かってもらえなかったのですが、勇気が出ました」と言ってもらえますが、結局はマイノリティですので、マジョリティの賛同は得られません(むしろ対立が深まります)

 第三に、教育改革者は、同じ「結論」を共有している人たちと傷を舐め合います。一番目の理由で書いた通り、教育改革には、誰もが納得するような強固なエビデンスを構築することは不可能で、(その1で書いたように、自身のそれまでの人生の経験に基づいた)主観を多分に含んだ、「結論ありき」のストーリーを構築することになります。しかし、このストーリーは、自分の経験をもとにしていますので、教育改革者自らの目には、相対的ではなく絶対的なものとして映ります。さらにそこに「自分の人生を否定したくない」という防衛本能が加わりますので、「こんなに明らかなことなのに、なんで分かってもらえないんだろう」という気持ちになります。そのうえ、二番目に書いた通り、教育改革者は孤独です。しかし、このストーリーは、同じ「人生の経験」と「結論」を共有している人たちに対しては、極めて強固で説得力のあるエビデンスになります。こうした人たちからは「分かります!」と言ってもらえます。同じようなエピソードもたくさん共有できます。結果、孤独を和らげ、自らの人生を否定することを回避するために、そうした「人生」を共有できる人たちと、密接な関係を築いていくことになります。

 第四に、教育改革者は、マジョリティを説得するために、権力を行使することになります。繰り返しになりますが、第一に書いた通り、教育改革を進めるために、誰もが納得するような強固なエビデンスは構築できません。また、第二に書いた通り、結局はマイノリティのままで、マジョリティにはなれません。一方で、(こちらもその1で書いた通り)マジョリティの側も、自分のこれまでの人生を否定したくないため、教育改革の論理を受け入れることはできません。その結果、教育改革者は、権力を行使することになります。基本的には教育改革者の言説は、(「子どもの権利を尊重する」というロジックから派生することが多いため)既存の権力関係や上下関係を否定する傾向にありますが、「子どもの権利を守るためにはやむを得ず」という名目によって正当化され、権力行使が認められることになります

 第五に、教育改革者は、自らのポジションを守るために、他を排除します。「教育改革者」というポジションは、極めて不安定な立場です。(現在の日本の場合、)教育改革者の論理は、経済界の論理と一致する可能性が高いです。「自らの失敗」を肯定したくない経済界は、失敗の原因を学校教育に求め(なすりつけ)ます。一方で、教育改革者も、データに基づくエビデンスに論拠が求められない中、ナラティブ(物語風)ではあるが強固な論拠として、経済界の論理を借用します。ただ、経済界は、外部から好き勝手言っているだけであり、仮に教育改革が失敗しても、失うものはさほどありませんが、教育改革者は違います。教育改革者は、これが生業であり、存在意義であり、人生であるため、自らのポジションを脅かすような人は、(たとえその人が同じ「教育改革者」であっても)排除します

 以上5つの理由により、教育改革者は、(自覚的であるにせよ、ないにせよ)排他的にならざるを得ないのです。
 なお、最後に書いた五番目の理由を裏から言えば、教育改革者は、実は、「マイノリティであること」自体に存在価値があります。マイノリティであるからこそ、メディアに取り上げられ、経済界の賛同を得られ、「同志」からもてはやされます。これがマジョリティになってしまったら、ただの「当たり前のことを言う人」になってしまいます。
 よって、究極的には、人生の否定を受け入れない限り、真の教育改革は実現できないのです。

 (ついでに言えば、教育改革者にとって、この考察も受け入れがたいものであることは、言うまでもありません。僕自身を含めて。自戒を込めて)

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