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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑮

【善意の生徒指導と、教師へのリスペクト】

 佐々木朗希投手と白井球審のトラブルが話題になっています。

 今回は、この件を、学校教育の観点から分析してみたいと思います。なぜなら、この件は、学校における生徒指導の構造と、とてもよく似ていると思うからです。

 今回のトラブルと、学校における生徒指導の最大の共通点、それは「完全なる善意」ということです。白井球審が「激高して」とか「我を失って」とか色々言われていますが、僕は、結構冷静だったのではないかと推測しています。つまり、根底にある感情は、「生意気なコイツの鼻っ柱を折ってやろう」ではなくて、「コイツが将来困らないように、俺がココで教えといてあげなきゃ」ということです。

 生徒指導の構造については、第8回でも少し書きましたが、教師の基本的な信念は「生徒のため」です。「生徒たちが社会に出てから困らないように、ココで教えといてあげなきゃ」という「完全なる善意」が生徒指導の原動力になります。ですから、「警察は時折、意図的に容疑者の人権を侵害する。教師は頻繁に、無意識に生徒の人権を侵害する」と言われたりするわけです。

 しかし問題は、
 ① この「社会」が、自分たちの時代から大きく変化していること、
 ② そして、「自分たちの社会」が、自分たちの「外の社会」から大きく乖離していること
 に、教師が気付いていないことにあります。彼らが一生懸命教えようとしていることの多くのこと(例えば規律とか礼儀作法とか)は、実際には生徒は、知らずに社会に出てもたいして困らなかったりするわけです(なぜなら社会には、独創性とか協働力とか、もっと別の評価軸が存在しているので)。

 しかし、ここで教師を責めるのも間違っていると僕は思います。なぜなら、気付かないのは「しょうがない」からです。考えてもみてください。教師という人間は、一生のうちのほとんどの時間を、学校という場で過ごしています。大学を卒業してそのまま教師になった人にとっては、立場こそ変われど、6歳で学校に入ってからずっと、彼ら彼女らの「社会」は、学校だったのです。ですから、「社会に出てから困らないように」の「社会」は、学校をイメージの基盤に置いた、教師たちの想像の産物でしかないのです。言い換えれば、「社会に出てから困らないように」は、「教師になってから困らないように」なのです。

 「だからこそ、学校は外との接点を増やさなくてはいけない」という主張には、僕も大賛成です。第5回で書いた通り、教師は、ともすると、外からの批判を恐れて、「自分から見た世界」の中に子どもたちを閉じ込めてしまいがちですので、そうした視点からも大切です。しかし問題は、その先にあります。つまり、「外の視点を入れた結果、学校はどうなるのか?」ということです。

 一見同じ「学校は外との接点を増やさなくてはいけない」という主張であっても、その背景には、実は2つの異なる思想が存在しています。第一は「教師は学校のことしか知らない。だからダメなんだ」という思想。そして第二は「教師は学校のことはよく知っている。でもそれだけでは不十分だ」という思想です。微妙に見えるかもしれませんが、この両者は大きな違いです。

 上記の通り、教師は、一生のうちのほとんどの時間を、学校という場で過ごしていますが、これは逆に言えば、「これほど学校のことをよく分かっている人はいない」ということです。学校に関しては、間違いなく、他の誰よりもエキスパートです。しかし、残念ながらこの専門性は、現在ほとんどリスペクトされていません。ここに大きな問題点があるように感じています。

 例えば医療と比較してみましょう。僕は医療と教育は、人の人生を左右するという意味で、同じぐらいに重要なものだと思っています。しかし、専門性に対するリスペクトは、決定的に違います。医療に対する不満は色々ありつつも、多くの人は、診察を受ければ「まぁ先生がそう言うなら分かりました。信頼しましょう」となると思います。しかし、教育の場合はどうでしょうか。「先生はエキスパートですから信頼しましょう」となっているでしょうか。診察が終わればほとんどの患者さんは「ありがとうございました」と医師に言いますが、授業参観の後、教師に(心の中ででも)お礼を言っている保護者がどれぐらいいるでしょうか。
 更に言えば、医師と教師でこれだけ待遇が異なることも問題です。「教師はもっと学ばなければいけない」というのはその通りですし、実際に、「外の世界を知らなくてはいけない」と思っている教師もたくさんいます。しかし、そういう感度の高い教師に限って、色々な仕事を持たされます。教員採用試験の倍率が2倍台という危機的な状況の中では、ますます「できる人」に仕事が集中していくのです。そんな、学ぶ時間も学ぶ余裕も無いような状況の中で(さらに学ぶリソースも学ぶインセンティブも提供されない中で)、その制度的な問題の解決を促すのではなく、個々の教師に「アンタは学校のことしか知らない。だからダメなんだ」という態度で接することは、問題の解決をより遠ざけていくだけにしかならないのではないでしょうか。
 第3回で書いたように、たとえ外の視点が入ったとしても、それでも僕は、教育という「舞台」の壇上に登る資格があるのは、子どもたちと教師だけだと思っています。「裏方」が声を届けることはもちろん大切ですが、その究極の目的は、生徒同士、そして生徒と教師が織り成す舞台を、如何にして実り多いものにしていくか、というところに置かれるべきだと思っています。そうでなければ、学校という場が存在する意義がないと思うのです。

 ですから、現状の学校教育に不満を持っている方にお願いしたいことが2つあります。第一に、「学校や教師をリスペクトした上で、破壊的な議論ではなく、建設的な対話をしましょう」ということです。そして第二に、「教師は学校のことしか知らない。だからダメなんだ」というスタンスで、「対話なんてできるか!」という人には、「そのエネルギーを、個々の学校に対する要求ではなく、学校への支援の充実の要求として、教育行政や政治家にぶつけてください」ということです。その方がきっと、ご自身が目指されていることに近付くと思います。

 一方で、教師の皆さんに意識していただきたいことは、対話を開くも閉ざすも皆さん次第、ということです。それは、大人たちとの対話のみならず、子どもたちとの対話も。リスペクトが乏しい中で、対話を開くことが、とても恐ろしいものであることは十分理解しています。しかし、自分が正しいと思っている信念でも、疑わしいと感じている信念でも、言わないことには伝わらないし、改善もされません。それに、社会の中で活躍できる子を育てるためには、まずは自分自身が社会のことを知らなくてはいけません。
 冒頭の佐々木投手とのトラブルについて、白井球審はここまで一切コメントしていません(もしかしたら佐々木投手本人には伝えているのかもしれませんが)。同じような、対話のない「善意の指導」、思い当たるものがありませんか?

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