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【Sweet Jailからの脱却】Connectedから自分を解放する孤独と静寂

カリフォルニアに住んでいて気が楽になるのは恵まれた気候以外にも幾つか理由がある。その一つが「適度に放っておいてくれる」感覚。東京で生まれ育った私でも、今の日本の「何かと放っておいてくれない」感(別名”同調圧力”)には息苦しさを感じる。カリフォルニアでは迷惑掛けない限りお互い文句言わないし干渉しない。ヒッピーカルチャーや昨今のマインドフルネスの潮流が示す、孤独や自律による精神的安らぎを尊重する価値観が背景にあるかもしれない。放っておいて貰うこと。逆説的に言えば、繋がりが欠かせない社会的生き物である人間だからこそ時には自らを全ての繋がりから解放(Unleash)することも重要になる。今日は人間を解放する孤独と静寂について書いてみたいと思います。

■Vipassana:静寂のリトリート


朝食を意味する「Breakfast」が実はFast(断食)をBreak(停止)するという意味だと最近知りましたが、16時間くらい絶食するとデトックス効果があるなど習慣化した行動をリセットすることの重要性を知る機会は多くある。最近興味を持って見ているサイレントリトリート「Vipassana(ヴィパッサナ)」。インド発祥のリトリートで10日間あらゆるコミュニケーションを(他人と目を合わせることさえ)絶ち、静寂の中に身を置き瞑想し、心と五感、精神を開放する。北カリフォルニアにもVipassanaセンターがあり毎年200人程の人が他州から集まっては10日間ひたすら自らと向き合う。

現代社会では1時間でもスマフォから離れれば皆不安になるほど常時Connectedを当たり前に受け入れ24時間何らかの情報行動を強いられている。だから情報行動から遮断されると不安や渇望を感じる一方で、少し冷静になれば無駄に消費されてた時間やリソースが戻ってくる感覚を得る。接続している間は自分の周囲にずっと張り巡らされていた蜘蛛の巣(WEB)状の時空が接続の遮断によって変形する。そんな可塑性のある時空を、時に自主的にリセットし「利便性に飼い馴らされた自ら」を「利便性という蜘蛛の巣」から解放することは生き返るのに似て見える。

■環境や思想、テクノロジーが下支えする静寂と孤独

孤独や静寂とシリコンバレー。世界有数のテック企業が軒を連ね、先端の技術やサービスで世界のビジネスをリードするが故に競争や多忙、活気や喧騒をイメージしがちですがビッグサー、モントレーやサンタクルーズなどサウスベイに根付くヒッピーやビートカルチャーは孤独や静寂、マインドフルネスとしっくり来る面もある。私はそんなカリフォルニアの元々の風土は元より、パンデミックが齎した環境変化、文化的ニーズやトレンド、そして一部の技術進化も孤独や静寂を良い意味で後押ししている部分があるのを感じます。パンデミックで誰もが冷静に取るようになった人との距離感。あの米国人でさえ矢鱈目鱈にハグするのは控えるようになった(笑)。

一見寂しい事のようにも思えますが、あるべき落ち着きを取り戻したとも言える。そしてノイズキャンセル付きのEar Budsの浸透。今や多くの人が”耳栓”をして「Isolationと静寂」を携えながら移動したり仕事したり運動したりしている。「耳栓文化」が全部良いと言うつもりは無いけれど何かと騒がしい社会で静寂を手に入れる“自衛手段”としては有効。孤独や静寂が創造性を向上させるとする説も良く聞く。風土やカルチャー、そして人の弛まぬ向上心はどんな禍さえ創造性で超えて行く。

■いつしか染み付いたシミュレーション世界の作法

そういえば時々自分が勝手に取ってしまうオカシナ行動(作法)に自分で笑ってしまう。例えば、雑誌をパラパラと捲っていると気になった広告の商品写真が小さかったのでつい指がピンチアウトしてしまったり、またある時は気に入りのワイングラスを誤って割ってしまった時、左手の親指と人指し指が必死にCommand + Zを押していました(笑)。コンピューティングの技術進化が際限なく進めば進むほどこの世がプログラムされたシミュレーションであることの信憑性が高まるとスウェーデンの哲学者ニック・ボストロム氏やテスラ/Space Xのイーロン・マスク氏も口を揃える。

私にはこの世がシミュレーションかどうかは分からない。ただ一つだけ言えることは、自分も十分コンピュータ・シミュレーション世界の作法にどっぷり浸かっているということ。デジタルの世界では常にスケーラビリティもUndo も効くけれど現実の世界でそんなモノ効く訳が無い。前々回、人間や技術の傲慢について書きましたが、便利過ぎる環境は無意識のうちに人をどこまでもを傲慢にするのだろうと感じます。

■Sweet Jailからの離脱

私は現代社会をSweet Jail(甘く優雅な監獄)と呼んでいる。何でも便利になり多くの人が食うには困らぬように見えて実際は全く自由ではない。最近の都市伝説に“地球監獄説”なるものがあるようで死を免れない肉体に精神を閉じ込められて生きる人間という存在は本当は監獄なのではないかという論旨には一定の理解を見出せる。仮にこの世の99%の人が逃げ場のないグローバル金融システムに取り込まれ、もはや奴隷のような状況に置かれているにも関わらず誰一人文句言わないのなら、それは如何にも巧妙なSweet Jailかもしれません。

メディアやスマフォはそれを覚(さと)られないよう機能している? デジタルデトックスすると手持ち無沙汰に陥る人が多いのはSweet Jailの禁断症状? 安易な情報やテクノロジー、便利すぎるサービスに依存しているとそれが遮断された瞬間からパニックに陥る。Sweet Jailは自発的に囚われようとすればどこまでもその甘さを優雅に堪能できるから恐ろしい。でも私がこれをSweet Jailと呼ぶもう一つの理由はそこに”自分さえ望むならJailから解放され得る”監獄としてのSweetな「甘さ(隙)」も残されているということ。孤独や静寂はこのSweet Jailからの離脱を可能にする有効な手段の一つと思います。

結局のところ世界の捉え方や人生の生き方はその人自身の行動や考え方に託されている。いつの間にか取り込まれてしまっているシミュレーション世界の過剰な利便性や、グローバル経済が齎した甘い監獄から脱却するためにも、全ての繋がりから自分を解放する孤独と静寂の時間を確保することは今、とても重要と思います。

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