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【本音で生きるデザイン思考】整頓と混沌の往復が生みだす豊かさ

「遊びとは秩序と混沌の間の往復運動」(byニーチェ)はまさしく人生を豊かにするコツ。見方を変えれば左脳と右脳の間、そして理性と情緒の間の往復(実は私の娘の名前「理緒(Rio)」にはそんな意味を籠めました)。さらに言い方を変えるなら整頓と混沌の間の往復。私の発信するメッセージ「常識を疑え」も時には非常識であれ!とする常識と非常識の往復を意味する。どんな状況であれ一側面のモノの見方に終始するのは危険な呪縛となる。デザイン思考が方法論を超え、豊かな生き方そのものたり得るのは対極的思考によって誰もが気付かぬ内に陥る意外な呪縛から生き方や行動、発想を解き放つことができるからなのだと思います。今日は整頓と混沌、そんな対極間での往復が如何に有効か考えます。

■正論しか言わないオトナがつまらない理由

言っておきますが物事を整頓するのは大事です(笑)。が、最近ADHDと言う事象のことをよく聞きます。典型例を聞けば「片付けが出来ない」「集中できない」「落ち着かない」とか…。ん?子供って普通そうじゃね?と。それに、そう言ったら私もその素質十分(笑)ですし、私見ですがクリエイターの多くはそんな性質を持ち合わせてる気もする。整理整頓が正義な訳でもない。例えば整理されただけの部屋はキレいだけど居心地悪い。場所ごとに適切な情報量や密度が与えられた空間は心地良い。ある場所には凝縮感があり、ある場所には抜けた解放感があるようなリズミカルな空間。大概にして美にはメリハリがある。

キレイなだけでは奇麗に見えない。「キレイなだけ」は「キレイゴト」で表層的。コンマリ(近藤麻理恵)さんの片付けが米国でウケるのも、ビフォーアフターのリノベが面白いのもビフォーの混沌との対比があってこそ。同様に、常識的な正論ばかり口にする人が居たとしてその人は魅力的に映るだろうか?子供から見ても大人から見ても魅力的な人には一定のギャップが内在されている。「こんな側面もあるんだ!」みたいな意外な驚き。社会通念に付き合う余裕としての“整頓”と同時に、譲らない個性としての“混沌(カオス)”を常に併せ持つ、魅力あるオトナでありたいと思います。

■スタンスを決めることが正しい訳でもない

では整頓か混沌の片方に偏るとどうなるだろう。「お前は鳥か獣か?」と鳥、獣の両者からバッシングされたコウモリ。このイソップの有名な寓話はどちらにも見える容姿を利用した狡賢さを揶揄される話ですが、戦時に鳥と獣のどちらにも与(くみ)せず巧妙に生き延びたコウモリの立ち回りを教訓とする解釈もあるようです。米国の学校でもディベートの授業では必ず2回戦式。つまり対局するAB両方にスタンスを替えて戦うことで思考の領域を拡げる。自分がいつ何時どちら側になるか分からない。だからどちらのスタンスでも論陣を張り論破する力を付ける。

報道を意味するメディアはもちろんMedium(中庸)にその由来がある。中庸を守るべきメディアが万一そのバランス感覚を失いどちらかに偏った報道に陥ったらどうだろう。そんなメディアに強大な権力が味方すれば世の中はどうなるか。だからメディアこそコウモリを見習って持ち前の超音波を使ってでも(笑)障害物を掻い潜り情報を集め、立場を偽ってでも両方の代弁をすべきでしょう。寓話では鳥が支配する昼も、獣が支配する夜も活動できなくなったコウモリはその隙間の夕方だけ活動するようになるというエンディングですが、きっとその後も鳥と獣はまた戦争をしたはずで、もしかするとコウモリがそれを平定する平和の使者となるエンディングも有り得るのではないかと私は勝手に妄想します。

■整理し過ぎるとつまらなくなる

アートとデザインの違いとは?業界に関係するしないに関わらず頻繁に問われる問いです。「アートは主観芸術でありデザインは課題解決である」は立派な模範解答に聞こえるけど私には全然しっくり来ない。社会課題を解決しているアートもあるし正直どっちでも良い。じゃぁ音楽とノイズの違いは?ノイバウテンや一部の前衛的な音楽は人によっては音楽に聴こえない。ジャンル区分や評価をする上で何らかの線引きが必要になる場面はあるけど、それ自体にはあまり意味が無いし線引きし過ぎてもつまらない。むしろ相互の触発による変革に余地を残す方が創造的です。

そもそも分類や区分は目的に応じて運用してるだけで、例えば時計。60進法と12進法で規定された背景は、天空を太陽の直径で分割すると720個⇒太陽の直径分の移動に2分掛かる⇒2分×720=1440⇒1440÷24=60だったと。面白い!けど正確な時間分からないと死ぬ訳でも無いし、土日の朝は皆60進法や12進法から解き放たれて「今日は寝てて良いんだぁ~」みたいに解放感を味わったり、数分遅れただけで謝罪する山手線よりも、何時来るか分からないメキシコのバスがバス停に来てくれた時の方がよっぽど有難く感じたり(笑)。整理に拘りすぎると息が詰まったりもします。

■人には言えないけれど本当は…

米国を始め英語圏に「Guilty Pleasure」という言葉があります。「人には言えないけど実は~するのが好き」とか本音は違うんだけど社会通念上は一応こう言っておかないとマズイみたいな。デスメタル系バンドのギタリストが実はABBAや、セリーヌ・ディオンが好きみたいな(笑)ミスマッチの愉快さとして取り上げられる事象です。だからこそ社会通念という整頓された表層の一方で、その裏にある人間らしい混沌が織りなすミスマッチは魅力的に映るのでしょう。

例えば、人体に悪影響のある可能性がある“何か”を開発している会社に勤務している人は、その“何か”を悪く言えなくなる。これは言わば「Guilty Ignorance」(罪悪感の無視)であり、善意の黙殺という意味でNGでしょう。社内の一部の言論を封殺することで本来働くべき自浄作用が機能しなくなる。社内を「整頓」し切っておくことが社会全体に悪影響を及ぼす。本音としての「混沌」もまた是とできるような社会や集団の在り方は世の中をよりよく浄化し循環させるためにも必要なのではないでしょうか。

■ルールが厳密化すると悪意はステルス化する

整理整頓の一つ象徴としてルールや常識がある。社会や交通に於けるルールは当然一定に必要になります。これが無ければ社会はひたすら混沌とするでしょう。常識というものも長い時間の間に平準化され公益性に役立つ最低限のナレッジとして機能している間は有益でしょう。しかしそれらが過剰に厳密化していくと社会や集団は硬直化する一方で反発する悪意は行き場を求めて自らを不可視化しながらより悪質化していく。厳密過ぎる食事管理がストレスを生み、寧ろ病気を進行させるのと同様。整頓と同時に人間らしい混沌を赦せる社会。その往復にこそ豊かさのヒントはあるでしょう。

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