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私の結婚を書き殴る。

やっぱりな。
私の恋がこんなに上手くいくわけないと思ったんだ、と思い俯く。リビングでギターを弾きながら待つ彼に、料理を作りながら苛立っている。この気持ちを、料理を手伝ってくれない彼のせいにしながら、それだけではないことも分かっている。先日母親と口論になったこと、上手くいかない仕事、上手くやれない自分。その全てが重なり、それを誰に伝えても仕方がないことも分かっているのに、酔った勢いで全てを曝け出した自分の愚かさに、打ちのめされるような気持ちだった。そうして堪えきれず彼に見つからないよう、洗面台に突っ伏して泣いている。

結婚することに決めたのは、つい先日のことだ。誰に流されたわけでもないと確信するために、自ら彼に思いを伝えたのだ。ああ、私もやれるんだな。自分の判断で何でもできるんだな、そう思った。プロポーズされたいという気持ちがなかったわけではないが、そのような受け身的な考えが気に食わないのも事実だった。私が思う結婚は、自由で、平等で、楽しさがないといけないものだ。それがあれば困難はあってもいい。

まず始めに彼に伝えたことは、苗字についてだ。当たり前に女性が変えるものだと思わないで欲しかった。様々な手続きに追われることは明白だ。おそらく多くの男性が何となく苗字を変えることに抵抗があるように、私も同じ気持ちだ。彼は快くその気持ちを受け止めてくれた。私が言っているのは、決して彼の苗字になることが嫌ということではない。結婚するため、さてどちらの苗字にしようか。と、当たり前に話す世の中の方が素敵だと思うのだ。少なくとも、私の甥姪がもし結婚することになれば、当たり前にそのような話になる未来であって欲しい。選択的夫婦別姓も然りだ。もちろん結婚しなくても、何ら構わない。

しかし意外なことに、母親がこの意見を制した。
「彼の苗字がいいと思う。」
よくよく聞くと、相手の両親が悲しむのではないか、私が強情な奴に見えるのではないか、といった内容だった。正直、別の意味でハッとさせられた。なんて悲しい思考なんだろうかと思わずにはいられなかった。母親の時代からすれば当然と言えば当然なのだろう。言葉を選びながら、自分の意見を伝えてはみたが、てんで歯が立たない。思えばこの人はいつもそうだった。私がやりたいこと、考えていることのほとんどにケチをつけた。いや、私の言い方があまりにも一方的であることも大いに関係があるのだが。それなのに私は、母親にはいつでも肯定して欲しかった。職業を決めた時も、結婚したくなかった時の気持ちも、子供が欲しいと思わない気持ちも。別にそれだけが人生じゃないと、その一言があればどんなに楽だっただろうか。しかし、彼女も人間なのだ。1つの意見として冷静に聞けない私が、まだまだ子供だということも確かなのだ。親子は難しい。

このもやもやした気持ちを消化できず、彼にぶつけてしまいそうになっている。果たして私はこれからこの人と一緒に生活して、色々なもやもやで傷付けてしまわないだろうかと不安になる。彼とは別の場所で発生したもやもやを、彼に対してのそれと混同してしまわないだろうか。結婚って、こんなに難しいものなのか。洗面台から顔を上げられず、涙まで次から次へと溢れてくる。どうしてこんなに不器用にしか生きられないのか。

しかしこれは、自分の人生を生きているという証拠でもある。自分の気持ちと考えに向き合えるのは、結局自分だ。結婚して夫婦になっても、個人だ。この個人があるから、見失わずに、自分の足で立てるのだ。私の結婚は、そういうことであって欲しい。相手ありきの自分になってはいけない。やたらと結婚を良いもののように言う友達や、結婚してこそ1人前だと言わんばかりの大人や社会に負けてたまるか。通り過ぎるだけだ。結婚が、私の人生を通り過ぎるだけ。やってみる、それくらいでいいのだ。

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