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黄金に輝く日の昇る国日本① ~扶桑国Japan~        

 さて、ここをご覧になって下さった皆様。日本という国名は誰でもご存じかと思いますが、扶桑国って何?と若年世代の方々は特に思うのではないでしょうか?【扶桑】という言葉は戦争を体験した世代ならぎりぎり知っているかもしれない言葉です。何故なら戦艦扶桑というものが戦争中は活躍したからです。

北鎮海軍様より引用【戦艦扶桑】

仏教界でも有名な【扶桑】という言葉

~あの有名人も扶桑という言葉を使用しています~

 あの有名人とは日蓮です。日蓮宗の開祖として知らない人はいない彼ですが以下の様な書物の中で【扶桑】という言葉を用いています。

【諌暁八幡抄】

日蓮の生きてきた時代は鎌倉時代なのですが、弘安3年(正確には1278年から1287までの期間)当時59歳だった日蓮が、身延にて諌暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)という書物を書きました。

諌暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう(別名『諌暁書』)1530頁より引用

「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国(ふそうこく)をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相ずいそうなり」弘安三年太歳庚辰十二月 日 日 蓮 花 押

解釈は、訳者によって若干の違いが有りますが。まず前提条件として
【仏教を月と太陽の運行に例えています】
意味を総括すると(天竺国(てんじくこく)を月氏国というのは仏の出現し給うべき国名である。扶桑国(ふそうこく)を日本国という)ま日が昇るように仏が出現するという国だと意味から日本という国の名前なのだと解釈しています。
月がはじめは西天に現れ、それが東の空に移っていくように、釈尊の説かれた仏法が、月氏より東へ流れて中国、日本に至りました。日が東より出ることは、日本に出現した大仏法がやがてインドヘ弘まってゆく瑞相である記しています。
 日蓮が言っているのは、日本から出た仏法の教えは太陽のごとき仏法であり、東の日本から興って、東洋へ、全世界へ流布していくと主張しているのでしょう。東の日本に出現してインドに還っていくと述べられている。これを仏教西還といいます。
※仏教は西側から来ました(月氏国:今のインド)そして日本に渡りましたよね?そして日本で発生した大きな仏の法がやがて広がりインドまで帰っていくという事です。

さて、私は、どうしてわざわざこんな難しい内容を記述の中に入れたかというと、今後解説していく中で大切な要素になる事がここには書かれているのです。日蓮は神道悪しの時代に生まれました。つまり神道的考えを公には丸出しにはしにくい。しかし国母である天照大神を尊重してるのは彼の宗派の曼荼羅等見ても明らかであります。
●狐と女神の配置図やダキニ天、鬼子母神
●そもそも処刑の時に八幡様~!と叫んでいます。
※釈迦牟尼仏陀~!と叫んでいないのです

何より扶桑という言葉を使い後の世に彼は暗号を残していると私は受け止めています。
何故ならこの【扶桑】という言葉に古代日本を紐解く大きな鍵があるからです。そして間違いなく彼が言う通り日本は日の昇る国です。

扶桑は戦争中までは扶桑という言葉は誰でも知る言葉だったという事は戦艦の話からも明らかですが、ではこの扶桑という言葉がどこに起源を持っているか?という話をしていきたいと思います。
【扶桑】
ウィキペディアより引用
扶桑
(ふそう、フーサン、英: Fusang)は、中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木扶桑木扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば『扶桑略記』は平安時代の私撰歴史書の一つである
~以上~

この中のキーワード

【扶桑という巨木の生えている土地を扶桑国という】

という内容をしっかり胸に刻み込んで欲しいなとタカチホは思うのです。その理由はそれが日本の原風景を現すからです。※この件については今後の記述でも順を追って解説していきます。
 
平安時代の私撰歴史書『扶桑略記』という扶桑(国)の歴史というまさに日本略記と書いていないあたりでも扶桑という国名がメジャーであったという事は明らかなのですが、では扶桑と言われるような国内の様子がどんなであったか?この辞書の記述からは見えてこないですよね?
 とういう訳で【扶桑】と言われるような国内の様子が書かれた本をもう一冊紹介していきたいと思います

古代の書物には日本国=扶桑国と記されている

【山海経典】
扶桑樹ははるか東方の海の果て、太陽が昇る場所とされた湯谷(ようこく)(陽谷(ようこく))に生えていた。高さが数千丈、太さが1千丈という巨木だった。
扶桑樹から飛び立つ太陽は、普段は一日に一個と決まっていた。太陽の母親である羲和(ぎか)が車に乗って、毎日太陽を先導した。この太陽がはるか西方まで進み、虞泉(ぐせん)という場所に近づくと夕暮れになり、蒙谷(もうこく)に入ると夜になるとされた。そして太陽は夜の間に湯谷に戻り、そこで並んで待っている太陽の一番最後に付き、次に飛び立つ日を待ったのである。
この順番が狂い、一度に十個の太陽(昔は太陽が10個有ったという設定で神がその数等をコントロールするという考えです)が扶桑樹に登り、そこから空に飛び立つようになったために、そのうち9個の太陽が羿に打ち落とされることになったのである。
扶桑樹の頂上には玉鶏(ぎょくけい)という鶏もいたという。これは世界の鶏の代表者のようなもので、扶桑樹に太陽が登り、夜明けが近づくと大声で鳴いた。すると、この声を聞いて度朔山(どさくさん)の金鶏(きんけい)が鳴き、金鶏の鳴き声が聞こえると石鶏(せきけい)が鳴いた。そして、石鶏の鳴くと天下の鶏がすべて鳴き出したという
~以上~

 山海経典は奇書物とされ、地図が破られているページがあります。本当に奇書でしょうか?絵本の様な部分も確かにありますので、妖怪とか怪物とか(笑)そういうものを除きまして、実は土地の事とか調べていきますと単純に為政者に都合が悪かったからじゃないかな?と私には思えるんですよね。
科学的なデータを見てもそれは明らかになって行きますんで、ぜひタカチホの今後の記述も見逃さないようにご覧ください。

【本当に何も存在しないなら遺跡にさえ残ってないはずだと思います】

さて・・・・扶桑ってどんな木なの?って思いませんか?実は世界にあった神的大木じゃないか?と言われている細工が中国遺跡に残っていました。そしてその遺跡の中に世界樹と言われているものが有ります。その模型がネットに出回っているものなのですが。※以下参照

Wikipediaより引用:世界樹と言われるオブジェ

1986年にブレイクしたときに山海経の扶桑じゃないか?と噂が出たらしいですが、私はそれはちゃんと山海経を読んでいない人か真実を隠すために意図的に広めたと思います。

  1.  そもそも山海経には話の流れで神聖な巨木の話として建木・扶桑・若木という風に巨木の話がそもそも出てきています。世界に何本かあるうちの東に有る巨木の事を扶桑と言っているのです。

  2. どちらにしても、実はこれらの樹木のオブジェって全部で8つありまして、他のは一般の人は見る事が出来ていないのと、あとはパーツが足りないのもあり全てを復元できていないのです。

  3. 扶桑は樹形がそものもがこのオブジェとは全く違います。樹形については山海経に記述があります。

 山海経の中には実はこういった神樹みたいなものの描写が実は数種類出てくるんです。それらの特徴は共通している物、少し違ったものが有ります。なのでそれらの複合ではないか?という事が言われているのですが、それは実は山海経典でも複数出てくるからです。
 世界を構成する巨大な木として『山海経』や『淮南子』などに出てくる樹木は実は扶桑(扶木)・建木・若木の三種類あるんです。古代中国で考えられていた世界樹といえるような存在が断片的にこれらの書物には書き残こされています。
何らかのグループごと?国ごと?
古代の事なので記述がないし何と称するかまではわかりませんが、それぞれの地域での信仰対象が複数あった事は間違いないという事になるんです。
遺跡で発掘されたオブジェは木の種類は桑です、でも扶桑とするのにはそもそも形が違います。

古代の世界には崇められる巨木が複数有りました。

①若木:西の果て

中国の伝説で西の果てにあるとされる巨木。『山海経』(大荒北経)には赤い木で、青い葉・赤い華であると記されており、郭璞(中国文学者)の注による増補では崑崙(こんろん:中国の伝説の聖なる山)の西にあたる西極(西の果て)に立っているとも書かれている。『淮南子』(中国古代書物)では、建木からみて西に生えており、枝には10個の太陽かついて地を照らしているとある。
※若木は、『山海経』では大荒北経のほぼ最後(大荒北経は東北から西北にいたる構成)に記載されている。「日月の入るところ」(日没の地)という表現は、むしろ大荒西経に必要以上に頻発する。
対となる「日月の出るところ」は大荒東経に同様に多用されており、こちらには扶木(扶桑)の記述がある。昆侖(崑崙)や西極についての記述も大荒西経に存在する点からみれば、「西」に位置するものであるといえる。

たかちほが作成してみた若木のイメージ図:赤い枝・青い葉・赤い花・十個の太陽が枝に有る

②建木(けんぼく):世界の中心

天地の中央に立っているとされ中国の伝説にある巨木。神話や伝説で「天と地の中」と呼ばれる成都平原すなわち「世界の中心」であり、これは大地の中心に立っている神木であることを示しています。天と地を結ぶ神聖な樹だと考えられている。『淮南子』(中国古代書物)では、都広(とこう)山に生えており衆帝がこれによって上下をすると記されている。
 『山海経』においても都広は天下の中央に位置すると記述されており、建木が天地の中央に位置する木であると考えられていたことがわかる。『山海経』(海内経)には紫の木(茎)で枝はなく、青い葉・黒い華・黄の実、上のほうは九つにまがりくねり、下のほうも九つにわだかまると記されている。位置については『山海経』(海内南経)では弱水のほとり、氐人国の東、『呂氏春秋』(有始覧)では、白民国の南に建木があると記述されてもいる。
  記述を読むと、この建木こそが世界樹であるという風に思えないでしょうか?そしてこのイラストを何となく頭に思い浮かぶ方が居そうです

Wikipedia引用:世界樹

世界樹は天を支え、天界と地上、さらに根や幹を通して地下世界もしくは冥界に通じているという。日本では神話に根の国とか出てきますよね?それだけではなくインド・ヨーロッパ・シベリア・ネイティブアメリカンの宗教や神話、ハンガリー神話・テュルク神話・モンゴル神話・ゲルマン神話・バルト神話のオークとして・ヨルバ神話のイロコ・ヒンドゥー神話のアクシャヴァタとして、この様な木が出てくるという事です。
 山海経の海内南経には、弱い水辺に魔法の木があると書いてあります。その樹皮は帽子のリボンのようなもので葉は網のように果実はユーカリの木の実のようなもので

ユーカリの実

※樹形は不明ですがカラーのイメージをタカチホが作成してみました。

たかちほが作成した建木のイメージ:紫の木で枝の有無については正反対の記述があり不明。青い葉・黒い華・黄の実、上のほうは九つにまがりくねり、下のほうも九つにわだかまる。

③扶桑木:東の果て

中国伝説で東方のはてにある巨木。古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬萊山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという。のち、『梁書』が出て以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替されており、この場合の「扶桑」とは実在のどの植物のことかをめぐって一つの論点となる。扶桑の木を実際のクワのこととみなす場合もあるが、『梁書』の扶桑の木の説明では実際のクワとは異なっているので、これを実在の様々な植物の特徴を繋ぎあわせた架空植物とする説や、後述の扶桑国メキシコ説の場合ではトウモロコシもしくはリュウゼツランとする説がある。また愛媛県伊予市の森海岸に露出している郡中層にはメタセコイア等の多くの化石植物が含まれているが、この化石植物群は古くから扶桑木と呼ばれている。他にもハイビスカス(ブッソウゲの栽培種、中国南部原産)の別名を扶桑ともいう。しかもね山海経の挿絵はこうなっているんですが

山海経の挿絵

こういうのを見るとやはり桑なんじゃない?って思いますよね。実は山海経には、ネットや世間で言われている以外にも、他のページにも扶桑木の様相が書かれた記述があります。日本語訳されていないので知っている人がいないようなので(専門家の方以外)私が、扶桑についての別のページについてご紹介します。
※この日本語訳されていないというところもまたなんか裏がありそうな気がします。考えすぎかしら?
私は翻訳するうちに興奮してきました。だって自分が思った事が有ったんですから!この話は実は色々な物を解明することに繋がりました。是非一読してみて下さいませ。

華人百科HP様より引用参照
漢神話の霊的な土地の1つは、東の海の伝説です、フサンの木は2つの相互に助け合う大きなマルベリー(桑)の木で構成されています。 太陽の女神と大神と息子のジンウ(三足歩行、太陽の霊)をここから運転します。 また、神界、人間、そして、その境界の連通門は、その日を映し出しし、それを踏み、その上に立って、人間の神と連絡が意味します。

①「太平御覧」 ジン・グオビン 「玄中記」より
天下にまたとない扶桑は枝木咲に花が咲き天へ曲がりくねってから下がる
②伝説によると「日の出、湯谷に下にある風呂に入り、その扶山を通って、四方を照らす」 伝説の日の出の場所
③《山海経・ 海外东経》:湯谷には扶さんがある。フサン、木也"。
④《海内十大陸记・帯州》木の長は2000メートル、大きくて胴回り2000メートル以上あります。 木は2本の根が生まれ、より寄り添い、扶山也という名前です。

日本は古くから扶桑国を名乗り、扶山と名乗る。
「扶山」とは、日本の富士
火山が噴火した際に発生した点まで届くような日の柱、火の玉、すす、回転ハリケーン。
東海の「神木」神話といわれる扶山の木の扶山は、日本の富士山の事です。 古代中国のいわゆる「扶山」の神話は、日本の富士山信仰と結びついており、「富士山」という言葉は、日本語で「フジサン」と発音され、中国語の「扶山」の読みとほとんど同じです。
~以上~

日本の扶桑木は富士山に有った!

という衝撃の内容が華人百貨には解説されているという事です。しかも
三足歩行、太陽の霊って?そう八咫烏の事ですよ!
湯に入るとは、富士山の火山活動が起きていた為。地熱で雄大な湖で有った古剗海(せのうみ)に湯気が立つような光景であったと思います。北海道にもそんな湖が有りますが、そんな感じで暖かかったのでしょう。

※地質学的に見ると紀元前3000年以前にあった巨大な湖は、現在、古剗の海(こせのうみ)と言います。剗海(せのうみ)の方は神社名にもなっておりますので、御存じの方はいらっしゃるかもしれませんが、剗海(せのうみ)は遡るともっと広大な面積だったのです。最も富士山は何度も噴火していますから。

そして面白いのは、扶桑木に対する描写です。
●漢神話の霊的な土地の1つは、東の海の伝説です、フサンの木は2つの相互に助け合う大きなマルベリー(桑)の木で構成されています。
●木は2本の根が生まれ、より寄り添い、扶山という名前です。
~以上~

つまりご神木そのものがフーサン、富士山という事でしょうね。富士山のところに生えていたので。この事から想定される事って・・・・何と・・・・・

連理木(城山八幡宮)

Wikipediaより引用

 そうです!つまり扶桑木は連理木であったと書かれているから遺跡のオブジェは扶桑木そのものではないですね。

 【世界樹オブジェの詳細】専門家はどう見ているか?
三星堆遺跡の二号祭祀杭から1986年8月に出土
中国語名「青铜神树(青銅神樹)」(雅名「通天神樹」)、日本語名「青銅神樹」。殷代晩期のもので、全高396センチメートル、像高(樹高)384センチメートル。3階層になっている幹の各層に3枝ずつが張り出しており、27個の蕾、それぞれの枝に1羽、全部で9羽の霊鳥が留まっている。枝先には果実がなり、樹の下層には頭を下に向けた1頭の龍が這っている。前脚は神樹の土台の上にあり、後足は人間の手のようであり、体からは羽根状のものがぶら下がっている。
 中国神話には神樹に関する多くの伝説があるが、代表的なものに『山海経』に見られる東の地にある扶桑、中央の建木、西の若木がある。 三星堆の神樹は、これらの3つの神木の要素を持つものと見られており、古代の人々の太陽崇拝の産物であるだけでなく、古代の人々の心の中の「天国への梯子」でもあり、宇宙の概念を表す宇宙の木でもあると考えられている。
~以上~

 建木・扶桑・若木【世界を構成する巨大な三本の樹】

 柱の儀式というのは世界的に見られていて日本では縄文時代にさかのぼります。心御柱も太陽神アマテラスの行事であり、最初は富士山にあった事からどう見ても関係が有るでしょう。
この三本の木を見て下さい。そう!太陽の起動そのものです。東から西に天を(中心の建木の上)通る重要拠点という事。昔から太陽というのは神様そのものですので、要するに【太陽信仰】そのものなのでしょう。
 日本のミシャグチ(蛇・あるいは竜とも目されている九頭竜神)は木を伝って地面に降りてくると言われています。つまり頭を下に向けた竜の像様そのものという事です!

でもさあ、十個の太陽とかそんな大きな樹木なんてあるわけないだろう。
たかちほって頭おかしんじゃないの?と思った人には余計に次回の記事を読んで欲しいです。

次回からは、天体の解説と【当時の富士山は信じがたい形だった】というお話をして参りたいと思います!

以下リンク先にに続きが書いてあります。是非ご覧になって見て下さい。

続編続編
続きは以下をクリック宜しくお願いいたします。


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