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正しさという病〜映画「天気の子」を観て〜

最近、いや、最近に始まったことではないのだが、あなたはテレビの中で繰り広げられる、SNSの中で繰り広げられる、正しさのバーゲンセールに嫌悪感をいや、もっとなんというか、疲れのような感じを覚えたことはないだろうか?

国民全員が、メガネをかけた学級委員長のように(完全なステレオタイプです)、学校の中で決められたただの”ルール”に従わない人間は、まるで悪人のように扱う。

そんなあなたは、体育館倉庫で猫を飼う優しい彼を、”ルール違反”と糾弾するのだろう。

今僕らの周りにある”正しさ”は、この時代限定の”かりそめの正しさ”だ。

だって、江戸から昭和そして令和、数百年でいや、数十年で”正しさ”は大きく変わる。

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と、よくわからない持論を述べてしまいました。

というのも、映画「天気の子」を観てテンションが爆上がりしてしまっているのです。ご容赦ください。

素晴らしい映画でした。是非観に行ってください。

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本作の監督の新海誠さんの著書「天気の子」(映画の原作本です!)の、あとがきでこんなことが書かれています。

映画は正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことをーー例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密かな願いをーー語るべきだと、僕は今更に思ったのだ。
〜〜中略〜〜
道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。それこそが、僕の仕事だし、もしもそれで誰かに叱られてしまうのだとしたら、それはもう仕方ないじゃないか。僕は僕の生の実感を物語にしていくしかないのだ。

作中で、主人公は最大多数の最大幸福という政治家的な価値観では、みんなに迷惑をかけてはいけませんという教育的な価値観では、全く評価されない、たった一人のために、いや、ただ自分のために世界を変える行動をとる。

しかし、それこそが僕らの”生の実感である”と強く感じられた。

僕らは、正しくあるために生まれてきたのだろうか。時代により移り変わる、そんな不安定なもののために。

いや、もっと、シンプルで、根源的な、目の前の人をじっと見ればきっと思い出せるような。

そんなもののためだったのではないか。

どんな世代の人が見ても、何かしら、考えさせれる素晴らしい映画でした。是非観に行ってみてください。

23歳男性の拙い感想文でした。

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