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隠れた名作ゲームソフト「プリズム物語」

隠れた名作。

テレビゲーム界隈において、そのように評される作品は数多く存在する。とくに1993年に発売された家庭用テレビゲーム機「サイバーホーム(以下サイホム)」は、専用ソフトの多さゆえ埋もれてしまう作品も多かった。

たとえば他の大型タイトルと発売日が重なってしまった悲劇のレースゲーム「ワイルドストライプ!」や、製作費用がかさみ宣伝費が2000円しか捻出できなかったRPG「ウィアードテールズ」、そして斬新過ぎる内容が受け入れられなかった3Dアクション「膝」など、タイトルをあげれば枚挙にいとまがない。つまりサイホム全盛時代とは、同時にソフトが急造乱造されていた時期でもあるのだ。すでに製造が中止されている2018年現在においても、サイホムはもっとも専用ソフトが多い据置型ゲーム機となっている。約8000000本ある。

しかしそうした時代と環境に埋もれてしまったソフトにも、一部のファンからカルト的人気を得ているものがある。そのなかのひとつが「プリズム物語」だ。


遅すぎた作品

プリズム物語の発売元はゲームソフト会社のプラスマイナス(後にPLUSと改名)。発売年は2003年。

ちなみにサイホムの次世代機である「サイバーホーム2」が発売されたのは2001年。つまりこの時点で、初代サイホムは過去の存在となりつつあったのだ。よって初代サイホムでリリースされたプリズム物語が話題になることは当然なく、売り上げ本数は約2000本にとどまった。参考までに、プリズム物語と同時期に発売された超大人気タイトル「ラスト・ディスティニーⅦ」の売り上げ本数は、なんと340000000本だ。


何故プリズム物語はそんな呑気なタイミングで発売されたのか。サイホム2でリリースするという手はなかったのか。その辺りに関して、長い間いくつかの説が存在していた。本来の発売予定年は1998年だったが社内でトラブルが起きたのだとか、あるいはうっかり者の社長がうっかり者ゆえにうっかり発売するのを忘れていただとか。

しかし後年のインタビューにて、プリズム物語のディレクターを担当した竹本基丈はこう語っている。


「プリズム物語を初代サイホムでリリースしたのは、初代サイホムが好きだったからです。色とかにおいとか。あとなんか形がまるいところとか。そういうところが、なんかいい感じだったからです」


つまりスタッフたちは、並々ならぬこだわりの末にサイホム2ではなく初代サイホムを選択したということだ。そこにはクリエイターとしての矜持があったのだろう。安易に新型機種でリリースするのではなく、色とかにおいとかまるい形とかのなんかいい感じを重視する。それこそがプリズム物語という作品にとって最良だと考えたのだ。


世界観と物語

このゲームはファンタジーだ。ゲームシステムそのものは平凡なアクションRPGなので、そこに特筆すべきことはない。ぜんぜんない。

だがドット絵の2Dで表現されたその美麗な映像は、昔のゲーム機とは思えないほどの、おそるべきクオリティになっている。デフォルメされた可愛らしいキャラクターたち。そして絵本のような温もりをもちながら、まるでブリューゲルの「バベルの塔」のごとき壮大さと繊細さを感じさせる背景。これらの要素は、リアルな3D画面で目が肥えた現代のゲーマーすら圧倒するに違いない。

そしてもっともプレイヤーたちを引きつけた要素が、世界観とストーリーだ。

このゲームの主人公に名前はない。つまりプレイヤー自身が主人公となる。主人公が存在するのはいかなる世界なのか、なにを目的として行動するのか、そもそもこれはどういった物語なのか。全てがふんわりとした謎につつまれ、そしてふんわりとつつまれたまま終わる。達成感など皆無である。

そんなゲームの、一体なにが面白いのか。読者の皆さんはそう思われるかもしれない。だが面白いのである。

何故か。


ふんいきが、なんかいい感じだからだ。


「朝の自分。夜の自分。どっちも同じ自分でいるのは むつかしいものさ」


これはゲーム中に登場するセリフだ。なにやら創造力を刺激する、意味深な趣がある。いったいどんなキャラクターが、どんなシーンで口にするのか。

答えは主人公が村のアイテムショップのあるじに話しかけた時の返答だ。この後は普通に「買う」「売る」の選択肢がでるだけで、別に前後関係などない。ストーリーとも関係ない。この村で朝と夜に関するエピソードが発生するわけでもない。ショップのあるじが詩人であるという設定もなければ、さりげなく世界観を示唆しているというようなこともない。単純に他のRPGで言うところの「よくきたね。ここはよろず屋だ」程度の意味しかない。


でも、なんかいい感じがする。


「さぁ 月の背骨の背にのって。始まりも 終わりすらもない 月の背骨の背に。あなたとわたしの旅は そのためにあったのです。いまここで すべてを終わらせましょう」


これも劇中のセリフだ。ラスボスとの戦いを直前にひかえたシーンで、女神さまが主人公に告げるのだ。文字を読むだけでも、最終決戦に挑まんとする主人公たちの感情がひしひしと伝わってくるではないか。さらに「あなたとわたしの旅」というシンプルな言葉から、ここに至るまでの過酷な旅路すらもプレイヤーに思い起こさせることうけあいだ。

だかしかし、女神さまはこのシーンで初登場するのだ。旅のさなか姿を見せず主人公の心に語りかけてきた謎の存在とかでもない。そもそもこの世界に女神さまがいるという情報すら、まったくでてこなかった。あと月の背骨とやらも全然でてこなかったし、最後まででてこない。でてこないから、べつに月の背骨の背に乗ることもない。プレイヤーにはなんのことだかさっぱりわからない。


でも、なんかいい感じがする。



ふんいきゲーであるということ

このプリズム物語のようなゲームは、俗にふんいきゲーと呼ばれる。

それはつまり「なんかいい感じのふんいきはあるが、結局ふんいきしかない」といった内容のゲームを意味し、侮蔑的な意味合いを持つことが多い。

この定義にあてはめるのなら、プリズム物語は間違いなくふんいきゲーということになってしまうのだろう。


実はこのゲーム、当初の予定では完成系の5倍近いボリュームになるはずだったのだ。しかも緻密なプロットによる一部の無駄もないストーリーを準備していたらしい。

しかし容量の問題で削らざるを得なくなり、あちこち省略するハメになった。一部の無駄もないストーリーは一部の無駄もないがゆえに一部でも削るとめちゃくちゃになる。それを五十部くらい削ってしまったので、完全に意味不明な物語になったのだ。しかしその空白にこそ、ある種の神話や民話的な感覚が宿っている。それこそがプリズム物語を隠れた名作たらしめる最大の要因となっているのだ。

この作品のシナリオを担当した大橋落太はこう語る。


「ふんいきゲーだなって、よく言われます。まぁぼくもその通りだと思いますよ。でも当初のプロットを見返すと、ぜんぜん面白くないうえに、ふんいきすらないんですよ。だからこれでよかったんだと思います」


我々ソニックパルスフィクションは、その初期プロットを拝見させてもらうことができた。


確かにぜんぜん面白くなかった。当然ふんいきもない。ひとかけらもない。このまま発売されていたら、売り上げ本数は30本くらいになっていただろう。それを思えば、ストーリーの削除は怪我の功名だったのかもしれない。


そもそもふんいきゲーとは、蔑まれるべき存在ではないはずだ。

確かにふんいきだけしかないかもしれない。だが少なくともふんいきだけはあるのだ。ふんいきがあるだけで、その作品には価値がある。だからこそプリズム物語は、隠れていようとも名作と呼ばれているのだ。

たとえアーカイブ化されることがなくても、プレイしたことのあるごく限られた人々によって、プリズム物語はいつまでもひっそりと語り継がれていくのだろう。

この大宇宙に生きる我々人類は、そのことを決して忘れてはならないのだ。


※Photo by Marko Blažević on Unsplash




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