見出し画像

「わかりあえなさ」をわかりあおう

(2021年6月7日の日記)

久々に展示を観に行った。

ここ半年ほどは転職でバタバタしていて、いざ区切りがついたと思えば緊急事態宣言で、美術館などはどこも閉じてしまっている状態だった。仕事が休みの間、本当なら都外へくり出して、例えば鳥取や金沢に行きたいところだったが、そこはグッと堪え、そこそこ通い慣れた21_21へと足を運ぶ。

平日に行けば人は少ないだろう、と見込んでいたが、平日でも六本木の公園には人が多く少しばかり不安になる。一方で久々に訪れたせいか、21_21の背景の木々が大きく凛々しく見え、新鮮な気持ちになった。なんだか母方の実家の屋敷林を思い出した。

21_21に入るやいなや、受付で「一般と学生どちらですか?」と聞かれ複雑な気持ちになった。建物の中は割と空いていた。

現在の企画展は『トランスレーションズ展』という翻訳がテーマの展示だった。ディレクターはドミニクさん。Webサイトの紹介文の一部を引用する。

本展では、ドミニク・チェンの「翻訳はコミュニケーションのデザインである」という考えに基づき、「翻訳」を「互いに異なる背景をもつ『わかりあえない』もの同士が意思疎通を図るためのプロセス」と捉え、その可能性を多角的に拓いていきます。

多数の作品が展示されていたが、中でも印象的だったのは、冒頭のドミニクさんによる『Director’s Message』と、伊藤亜紗さんらによる『見えないスポーツ図鑑』だった。

『Director’s Message』では、動画内でドミニクさんが自ら展覧会へのメッセージを語るのだが、そのメッセージは1つの言語ではなく複数の言語から構成されている。ある時は日本語だが、次の瞬間には英語になり、また次の瞬間には中国語になって言葉が流れていく。

それは確かにメッセージだが、その言葉はおそらく誰も見たことも聞いたこともない並びになっている。

言葉には、意味とは別に独特なニュアンスが込められる。英語は日本語よりも抑揚がある。フランス語は英語よりも水のような勢いを感じる。人によってはそこから力強さ、優しさといった情感も感じとるだろう。本作品ではそういったものがごちゃ混ぜになって、ある一つのMessageが伝えられる。

そのMessageには意味はあるが、意味をなしているのだろうか?誰ひとり理解できない言葉(この展示のように数カ国語であれば人によっては可能だろうが、数百言語がごちゃ混ぜになった場合、ひとりの人間が理解することは限りなく不可能になるだろう)は言葉として成立しうるのだろうか?

『見えないスポーツ図鑑』では、スポーツそのものを観客はどれほど理解しているのか?という問いから始まる。

この展覧会の副題は『「わかりあえなさ」をわかりあおう』だが、スポーツにおけるわかりあえなさとは何だろうか。作者らはそれを選手たちの競技中の身体感覚だという。野球でもフェンシングでも、数秒間のうちに、選手たちは複雑な駆け引き、攻防を繰り広げている一方で、観客である私たちは、その結果しか観ることが出来ていない。

そこで選手間のそうした駆け引きをわかるために、「翻訳」できるツールを作って体験しようというのがこの作品の趣旨だ。バットとボールといったその競技を象徴するツールから離れ、本質を抽出し、より簡易な別の道具に置き換えることで、「野球」というスポーツの別な魅力が見えてくる。

どちらの作品、また展覧会のそのほかの作品も、既存のコミュニケーションのあり方を見直し再構成することで、「わからない」ということをわかろうとするものが多かった。

「翻訳」に限らず、何かを何かに置き換えるということは、暗号やプログラミング言語におけるエンコード/デコードしかり、詩や小説などの言葉による表現しかり、薬品やレンズによる現実の写真への焼き付けしかり、全てのメディアに当てはまる(そしてその接点、接面がインターフェース?)。

最近、『メディアの終わりの人類史』というPodcastシリーズを聞いたが、そこで語られていたのはメディア史とは人類史であり、人類史はメディア史である、ということだった。

話がまとまらなくなってきたので一旦やめるが、人類の、他者に何かを伝えたい=翻訳したいという思いが、これだけ多様なメディアとして顕在し、そしてメディア自体から本人の中の何か=伝えたいこと、が少しずつ変わっていくという構図が、何だか面白いものに感じられてくる。

ちょっと何言ってるか「わからなく」なってきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?