週刊タカギ #5

こんばんは、高城顔面です。

この数日、積雪がひどく、雪かきばかりしていて、左腕が痛いです。
あしたも雪。実に不安です。


本日は1/15(月)。一首評を掲載します。

コンビニが廃止となって排されていた夜の闇がしずかに充ちる

武藤義哉『春の幾何学』(2022,ながらみ書房)

著者の第一歌集より。この歌が収められている連作「舞台TOKYO」は2007年度の角川短歌賞の次席に選出されている(巻末の藤島秀憲による跋文より。歌集に収める際に大幅に歌を削ったとのことで、歌集内に連作として収められているのは二十首になっている)。

連作のタイトルからもうかがえるように、これは東京を舞台にした都市詠の連作である。他の歌にも、「山の手線」「高層ビル」「再開発」「渋谷駅」「新宿の大ガード下」など、東京という都市が存分に詠み込まれた歌が並んでいる。

今回引いた歌は一見地味なように思えるかもしれないが、都会的な視点がかなり含まれた歌であるようにわたしは感じている。

まず、「コンビニが廃止にな」るという情景をそれ以上でも以下でもなくドライに詠み込んでいる。もし、仮にそのコンビニがその町唯一のコンビニであったとしたら、ここまでの冷静な視点で、半ばインフラ化しつつもあるコンビニを捉えることはできないだろう。
ほかにも徒歩圏内にコンビニがあり、ひとつくらい町からなくなってしまっても支障をきたさない都会だからこそ、ここまでドライに詠み込むことができるのではないだろうか。

そして、そのコンビニがなくなって何が起こるか。「排されていた夜の闇がしずかに充ちる」のである。これも都市圏以外ではギャップが生じる。大都市圏ではあらゆる利用者のニーズに応えて、24時間営業のコンビニが数えきれないほど存在するが、少し地方に入れば、夜間は休業するコンビニがいくらでも存在する。わたしが暮らしている北海道の大手コンビニ「セイコーマート」も、札幌市内に所在する店舗でさえ夜間は閉店していることが多い。「コンビニ=夜中も明かりを煌々とつけて営業している」という図式は、基本的に都市圏や夜間でも人が多く移動する地域(幹線道路沿いなど)に存在しているモデルなのだ。
そして、主体はその光景を眺め、「排されていた夜の闇がしずかに充ちる」と感じる。おそらく、「充ちる」と感じるその対象は、コンビニがなくなった一角だけで、それ以外の場所には、家やマンションの灯りや街灯、時折通る車のライトが常にあるというイメージだろう。この状況を地方の国道沿いにポツンとある、閉店したコンビニに置き換えたとしたら、その闇は「しずかに充ちる」というよりも、ほかとの境目もなく、最低限の街灯と家灯り以外はとっぷりと闇が続いている、という状態になってしまう。これでは闇が「充ちる」のではなく「満たされている」という状態である。

この2点の状況から、この歌は、街の新陳代謝をドライな視点で見つめつつも、コンビニの跡に「夜の闇がしずかに充ちる」という、本来「夜」が持っていた機能が取り戻されたのも見つめている、というある種の人間らしい感情も同時に抱き、都市生活者ならではの風景の機微を穏やかにとらえている一首であるとわたしは感じた。実家の最寄りのコンビニも閉店してしまうような地方出身のわたしとしては、ことさらにそう感じてしまってならないのだ。


次回は1/19(金)、更新予定。短歌を掲載します(できてれば)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?