広島市長の教育勅語引用に問題はない

●テレビ朝日報道局「ABEMA Prime」への出演依頼
 テレビ朝日報道局クロスメディアセンター「ABEMA Prime」が明日の21時から、教育勅語の功罪両面を参照しながら、道徳とは何か、現代に教育勅語を活用するすることの是非について議論する番組のスタジオ出演を依頼された。一昨日の同時刻からのスタジオ出演を当初頼まれたが、18時半から21時まで国会議員の勉強会で講演・質疑の先約があったためにお断りしたが、同番組を延期し再出演依頼があったので応諾した。出演者は、2チャンネル創設者の「ひろゆき」こと西村博之、お笑い芸人のカンニング竹山、異文化教育のプログラム・研修を提供する(株)Culmony代表の岩澤直美、クラウドワークス元副社長で起業家の成田修造、司会進行はテレビ朝日アナウンサーの仁科健吾で、こども家庭庁、包括的性教育問題に続く3度目の出演である。同番組の企画は松井広島市長が職員研修で教育勅語を引用したことに端を発している。
●問題視する毎日・朝日新聞報道
 2月17日付毎日新聞によれば、広島市の職員研修で松井一実市長が教育勅語の一部を職員研修資料に使用していることを受け、市民団体が16日、研修に参加した職員の感想や研修の様子を集めた動画を公表し、引用の撤回を求める要請書を市研修センターに提出した。要請書では、昨年の職員研修で、市長が教育勅語の英文について「民主主義の先端を行くようなもの」と説明したとして、民主主義を感じるポイントについて回答することなどを求めている。提出したのは「教科書問題を考える市民ネットワーク・広島」と日本ジャーナリスト会議広島支部で、昨年12月にも抗議文を提出している。
 また、昨年12月19日付朝日新聞によれば、市の新規採用職員研修で松井市長は、研修資料の「生きていく上での心の持ち方」と題した項目で、「先輩が作り上げたもので良いものはしっかりと受け止め、また、後輩に繋ぐ事が重要と記述。教育勅語の一節として、「爾(なんじ)臣民 兄弟(けいてい)に 友に 博愛 衆に及ぼし 学を修め 業を習い 知能を啓発し 進んで公益を広め 世務(せいむ)を開き」との文言を掲載した。
 同日の定例会見で市長は、「民主主義を取り込もうとしているといったような内容だから、そういう評価ができるのではないかと、説明している」と述べ、12月11日には、「教育勅語の中に評価しても良い部分があったという事実を知っておくことは大切だ」とのコメントを出した。
 この問題については、政府の臨時教育審議会で専門委員として、詳細に報告し議事録にも明記された歴史的事実を十分に踏まえる必要がある。

●臨教審総会で私が報告し、確認した歴史的事実
 この教育勅語問題について真正面から議論した中曽根政権下の政府の臨時教育審議会の総会で、第一部会の専門委員であった私は、在米占領文書研究に基づく実証的立場からこの問題について詳細に報告した(髙橋史朗編『現代のエスプリ』「占領下の教育改革』至文堂、昭和59年、同「臨教審」同、昭和60年、同「臨教審と教育基本法」同、昭和61年、参照)が、まず教育勅語をめぐる歴史認識についての当時の文部省の公的見解について整理しておく必要がある。
 昭和23年6月19日の教育勅語の国会排除失効決議は、GHQ民政局の口頭命令によって強制されたものであった。憲法を押しつけた民政局は、日本側が妥協案として作成した衆議院決議案の「部分的にはその真理性を認められるのであるが」を削除。「詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対し疑義なしとしない(might)」のmightをGHQ民政局次長のケーディスが削除し、「違憲詔勅」であると断定した。

●文部省の公的解釈一教育勅語には「天地の公道」が含まれている
 教育基本法制定当時の文部省の公的解釈によれば、教育勅語には「天地の公道」たる真理が含まれており、教育基本法と矛盾するものではなく、両者を補完併存関係と捉えて、教育基本法を制定した。それ故に、松井市長の「教育勅語の中に評価してもよい部分があったという事実を知っておくということは大切だ」というコメントは、教育基本法制定当時の文部省の公的解釈と一致しており、全く問題ない。
 教育勅語を起草した井上毅の山縣有朋総理宛の書簡によれば、「政事上の命令と区別して社会上の君主の著作広告」として起草したものであり、この井上毅の意図は大臣の副署がないことによって貫かれ、詔勅の形式をとらなかった。従って、教育勅語は憲法第98条第1項にいう「この条規に反する詔勅」には該当しないのである。
 しかし、民政局の口頭命令による国会決議によって教育勅語の真理性を肯定していた日本側の立法者意思が全面的に否定され、「違憲詔勅」であることが強調された。その結果、教育勅語と補完併存関係にあるという教育基本法制定当時の公的解釈が根底から揺さぶられ、戦前の「教育勅語体制」から戦後の「教育基本法体制」への転換」、と対立的に捉える見方が広がったのである。
 しかし、教育基本法は教育勅語を全面的に否定したというのは「歴史の歪曲」であり、後の解釈によって歴史的事実を捻じ曲げることは不当である。
井上毅は教育勅語の起草に当たって、「宗旨上の争端」「哲学上の理論」「政事上の臭味」「漢学の口吻と洋風の気習」などを極力避けるように細心の注意を払ったが、後年の文部行政は教育勅語を「唯一絶対視」したために、実際には「政事上の命令」の如く歪められてしまったのである。
 そこで、戦後、教育勅語を唯一の淵源とする従来の教育体制を一新するために、教育勅語を本来の「社会上の著作広告」の位置に戻すことが必要になり、教育が混乱しないように、教育基本法が教育勅語の強い肯定の下に制定されるに至ったのである。

●田中耕太郎の見解
 教育基本法、学校教育法の施行によって、教育勅語を援用した国民学校令以下16の勅令と法律が廃止され、教育勅語の法的効力の「失効を確認」したのが参議院決議であった。当時参議院文教委員長であった田中耕太郎は、「教育勅語の運命」(『心』昭和32年2月号)で次のように指摘している。
 
<自然法の法哲学によれば、命令と規範とが区別される。・・・教育者は教育勅語を理性的に、客観的に、従って正当に評価しなければならない。これによってはじめて教育者は、今日なお見受けられるところの教育勅語に対するファナティックな崇拝と同時にこれに対する神経質な反情と恐怖症に陥らないで済むのである。>

 田中は教育勅語を「神懸かり的」に取り扱うのではなく、「倫理教育の貴重な資料」として取り扱うよう説いたが、重要な指摘といえよう。起草者の井上の意図に反して狂信的国粋主義、権威主義的教条主義に陥った教育勅語の形骸化が教育現場に広がった過ちを厳しく反省し、歪みを正さなければならない。
 昭和21年10月の文部次官通牒「勅語及び詔書等の取り扱いについて」は、教育勅語を教育の唯一の淵源とは捉えず、式日等における奉読を廃止し、神格化する取り扱いをしないことを明記したが、この終戦直後の原点に立ち返る必要がある。

●髙橋誠一郎文相の見解
 また、昭和22年3月の貴族院において高橋誠一郎文相は次のように述べている。
「日本国憲法の施行と同時に之と抵触する部分に付きましては其の効力を失ひ、又教育基本法の施行と同時に、之と抵触する部分に付きましては其の効力を失ひまするが、その他の部分は両立する・・・政治的な若しくは法律的な効力を教育勅語は失ふのでありまして、孔孟の教へとかモーゼの戒律とか云ふようなものと同様なものとなって存在する
 田中は命令と規範を区別する自然法の立場から、教育勅語の”命令形式“が民主憲法の根本理念と相容れないとして教育勅語の規範内容を全面否定するのは、「浴湯とともに赤ん坊まで流してしまう」との批判を免れない、と指摘しているが、教育基本法に抵触しない「父母二孝二」以下の12の徳目は教育基本法と「両立」するというのが、前述した高橋文相の見解である。
 教育基本法の制定にあたって、田中耕太郎文相が、教育勅語の徳目が古今東西を通じて変わらない人類普遍の道徳原理であり、それらが民主憲法の精神とは決して矛盾しない、と述べたのも同様の趣旨である。
 田中は、「注意しなければならないのは、この(文部次官)通牒もまた教育勅語の内容に立ち入って否定していないことである。それは教育勅語が教育の他の淵源と同列のものだということを明らかにしているだけである」と強調している。
 さらに注目されるのは、田中が民政局に対して、教育勅語にはもはや法的効力はないから無効決議は不要であり、「違憲の宣言は国会の権限には属せず、最高裁判所がなすべき事項である・・・教育勅語の内容をなす人類普遍の道徳律まで無効になったかのように誤解するおそれがあるから、慎重に考えなければならない」と反対したことである。田中によれば、司令部側は「教育勅語の形式と内容との関係を十分理解せず、またその内容が不穏当なものである」と誤解していたという。

●「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」は「古今東西を通ず公理
 教育勅語の「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」の一節が問題視されているが、「義勇公ニ奉」じる愛国心などがむしろ欧米では高く評価されたのである。ラフカディオ・ハーン著『知られぬ日本の面影』に教育勅語の英訳文が掲載され、末松謙澄と菊池大麓がロンドンで、金子堅太郎がニューヨークで、吉田熊次がベルリンで教育勅語を紹介し、大好評を博した。そこで文部省は『漢英仏独教育勅語訳纂』を公刊し海外の要所に配布した。
 例えばイギリスでは、教育勅語は日本の急速な発展を促した指導原理として、次のように積極的に評価された。
 「我々に有益なのは、日本人の永き太古の伝統」「教育勅語は寛大な威容を湛えている。教育勅語は過去の力をもとに将来へと前進していくことを求めている」「過去の最良なものの真髄を見事に保守」「われわれはそのなかに隣人に対する義務を示している点で、英国国教会の説教と結びついた聖パウロの教えのようなものを聞くようである」(平田諭治『教育勅語国際関係史の研究-官定翻訳教育勅語を中心としてー』風間書房)
 2月17日付note拙稿で引用したように、『戦艦大和ノ最期』の著者である吉田満が指摘しているように、国家の存在を認める限り、「その基本的要請に国民が答えることは、古今東西を通ず公理」なのである。

●「歴史に対する欺瞞」と両極端からの脱却
 以上の歴史的事実を踏まえて、教育勅語を「唯一絶対化」等の過大視や道徳規範までも全面否定する等の過小視という両極端を排し、理性的、客観的にバランスのとれた配慮をする必要がある。
 教育勅語の「古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外二施シテ悖」らない12の人類普遍の道徳規範まで「保守反動視してはばからない憂うべき傾向」が戦後顕著になったことを田中は憂いたが、教育勅語の道徳規範まで危険視し、教育勅語と教育基本法が両立していた戦前と戦後の連続性を全面否定することは「歴史に対する欺瞞」である。
 教育勅語と教育基本法の歴史を曇りのない眼で直視すべきであり、「真に問われるべきは歴史を無視し、今なお教育勅語を感情的にしか議論できない戦後社会の怠慢と貧困である」(貝塚茂樹「教育勅語を否定する戦後の欺瞞」昭和29年4月26日付産経新聞「解答乱麻」参照)。
 前述したように、教育勅語の人類普遍の道徳規範まで危険視することは「歴史に対する欺瞞」であり、以上の考察により、広島市長の教育勅語の見解や引用に全く問題がないことは明らかである。以上の教育基本法と教育勅語の関係に関する見解については政府の臨時教育審議会総会並びに第一部会で私が詳細に報告し、「審議経過の概要」に明記されている。
 
 


 









 
 

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