岡潔との対話⑶

 昭和46年4月11日に奈良大安寺で開催された「岡潔先生春雨座談集⑶」(岡潔思想研究会から送られてきた手書きの筆記録)の中から、興味深いやり取りを整理抜粋して紹介したい。

●第一の心と第二の心
<岡>心理学や大脳生理学が対象にしている自我中心の心が色々な働きを持つのは、その奥にもっと深い心があって、それが働いているから、知情意という働きが出てくるので、浅い心だけではそういう働きが無いんですね。ところが、日本は終戦後、特にアメリカの真似をしたために、深い心というものがあることを全く忘れてしまっている。憂うべき日本の現状が出てきてる。特に教育の面においてそれがはなはだしい。
 総て人の中心は心ですが、教育もまたこの心が良く働くように育てなければいけない。浅い心を第一の心。深い心を第二の心ということにします。きれいな小川のせせらぎに石が漬かっていると、それに陽が当たっていると、水の中の石は非常にきれいに見える。ところが取り出して乾かしてみると、極くつまらない石です。人生のこと一切は、この小川のせせらぎに漬かってる石のようなもの。その石が第一の心の内容、その小川のせせらぎが第二の心の働き。そういうものだということを今の日本人は全く知らない。
 戦後教育を受けた大学生の作文を読んでみると、ちっともわかっていないなあと思うんです。滓のような作文になるんです。統一するものが働いてないから、一編の文章にならないんですね。
<質問>若い人たちは自己中心で自己主張が強いように感じられる。現在の問題として、私は会社で困っております。何か良い方法はないか、わかりやすく簡単にお教え頂けましたら…

●自我を抑止し、懐かしさという情緒を育む
<岡>今の教育はアメリカの主としてデューイの教育学をもとにしたものですが、アメリカ人は第二の心のあることを知りませんから、自分と言えば自我のことだと思っている。それしかないと思ってる。総て自己中心が良いのだと、そう教えてる。人は自己中心であるべきだと教育したんです。それで今のようになってしまった。本当は自我を抑止することを教えなきゃいけない。教育が一番すべきことは、自我を抑止することです。これは数え年5つ位から始めて、高等学校の終わり位までは自我抑止をやらなきゃいけない。
雑草が非常にはびこってるようなものです。雑草の出始めた時すぐ引かなきゃいけない。一旦こうなってしまったら、ちょっと直りませんね。
 それをやかましく言うんだけど、教育はそれを聞かない。小学校の教育を誤ったら、もう直りません。幼稚園、小学校、その辺をよく教育しなきゃ。何よりも自己中心がいけない。第二の心の内容が情緒だから、情緒豊かに育てなければならない。情緒は第二の心が働くから感じられるので、小学校の教育は情緒豊かに育てなきゃいけない。それをやっていない。
<質問>どういうやり方が効果があるのでしょうか。
<岡>第二の心の一番基本的な働きは、心と心とが合一することだ。情緒としては懐かしさという情緒が一番基本になるので、第二の心が働かないと人が懐かしかったり、自然が懐かしかったりしないんですね。そいう外界が総て懐かしいという、その基本的な情緒の働きが著しく弱くなってるんです。基本を放っておいて枝葉末節だけ色々やったところで、とても直りゃしない。
<質問>岡先生の言われる通りのことを西田幾多郎先生が『善の研究』の中に書いてある「純粋経験」は時間・空間以上のものであると書いてある。
<岡>そうですか。時間も空間もみな心が生み出すんです。だから心がなければ、経験もあり得ないわけです。西田先生が言葉で言い表すと、滓のようなものだと言われたと聞いて、それ以後西田先生を尊敬してるんです。
<質問>指導方針と言いますか、何か具体的なものはあるんでしょうか
<岡>三島さんのような思い切ったことをやっても、感銘は与えるでしょうが、それ以上の効果は無いでしょう。第二の心が神ですね。もし神々が働いてくれなかったら、日本は滅びるでしょう。ここまで悪くなったのを元へ戻すことは到底できないでしょう。
<質問>人間が成長するということはどういうことでしょうか。
<岡>第二の心に目覚めていくのが人の向上ですね。第二の心が主になって、第一の心をよく使いこなすと役に立つんですね。

●「他を先にして、自分を後にせよ」
<質問>幼児期の教育が大事であるということですが、どういうところにポイントを置いて幼児期を育てていったらいいのか。
<岡>自我を抑えて自己中心でないように教えていかれたらよいんです。
<質問>具体的にはどういうように…
<岡>私の祖父は私に「他を先にして、自分を後にせよ」と、そう訓戒し続けたんです。また私の父は私に「日本人が梅が好きなのは散り際が深いからだ」と、そう教えたのですが、父が私に施した情操教育はそれだけです。そういうふうに一面戒律、一面情操と、その二面から自己中心であることを取り去ろうとした訳ですね。あの教育はあれでよかったと思ってます。
 自分という意識は、生まれてから60日位の子の中にすでに動いていることがわかる。自分と思っているような自分は消し去っても、なお自分は残る。これが本当の自分だと言える。この自分を真我と呼ぶことにする。自我は生まれて4か年になれば、時間・空間ができていく。5か年になると感情・意欲の主体としての自分というものを意識するようになってくる。自他の区別がつきますから、自分を後にして他を先にするように教えなければいけない。今は「批判精神」などといって、小学3年位から批判をやらせてるようですが、これは大変な間違い。そうすると他の悪いところを見て、これを非難するようになる。これを「小人」というんですね。人は他の長所を見て、これをほめるということにとどめておかなければならない。
 第二の心の働きで大切なのは懐かしさという情緒、可哀想だという情緒が基本的に大事です。それを小学校で育て、何よりも心の美しさがよくわかるように教えなきゃいけない。それを今の教育はしないものだから、頭の発育がよくないんですね。それで知・情・意ともによく働かない。これは第二の心がよく働かないからで、その原因の第一は、教育が自己中心ということを大事にして、自我抑止をやらないこと。第二は、情緒を大事にして、これがよくわかるように教えないことにある。

●第二の心に目覚める方法
<質問>第二の心に目覚める一番いい方法はどういうことでしょうか。
<岡>日本民族が自分だと思うのが一番早いでしょうね。仏教で教えている方法は個人的な修行。これに反して、日本民族を自分だと思うのは集団的修行。日本民族を自分だと思うのが一番早く小我を離れることができる道だと思います。
<質問>2歳半位の子供に何回も言い含めるというようなことをしても良いものかどうか、お伺いしたい。
<岡>自己中心をやかましく抑えなきゃならんのは数え年5つからです。それまでは自分と他との区別がよくつかないのだから仕方ないだろうと思う。子供がうまく育ってる場合は、心の世界に住んでいるという気がしますが、そこから迷い出るように感じられることがある。そうするともう間違ってるんですね。それは第一の心の世界へ迷い出てる訳なんです。何となく心の世界から迷い出るという感じがしますよ。第二の心の世界は「不一不二」の世界といって、自分と他とは一つではないが二つでもない。なんとなく和やかなんですね。
<質問>上の子が下の子に物を与えた場合に褒めてやると、そういうかたちで私自身はやっている訳なんですが。
<岡>第二の心の世界を離れると、とげとげしいようなところが出てくるんです。第二の心の世界に住んでると、自分と他とは全く融合してるんですね。
<質問>第二の心がわかるようにして、わかった人を今度は子供の教育に当てて、そこから世の中を変えていくと、そういうようなお考えでしょうか。

●「しらす」と「統治」の違い
<岡>ええ。終戦後ですよ、ひどくなったのは。明治以後日本は西洋の思想を取り入れて個人を自分だと思ってたに違いないんだけど、「滅私奉公」という標語が自己中心的なことを余程妨げてた訳ですね。それを戦後取ってしまったものだから、急に自己中心となった。つまり第一の心が堰を破ったように暴れ出したんですね。これを少しおさめなきゃいけませんね。
<質問>先生は色んな所でお話しするしか方法が無いとお考えですか。
<岡>このままでは日本は滅びるほかないから、速やかに欧米の間違いを知らなきゃいけない。民主主義も共産主義も共に個人主義ですね。ともに間違ってる。間違いは間違いと知るほかない。気付かなかったら日本は滅びますよ。事態は徐々に悪くなったのではなく、急速に悪くなってる。目下危殆に瀕している。それが現状です。もし言ってもわかってくれなかったら、滅びてしまうでしょう。その現状を認識する人が少ないんですね。呑気に考えてるけれども、誠に危ない所まで来ているんです。大学生の作文を読んでますと、日本の将来というものは無いという気がしますね。
 終戦後日本は非常な毒物を食べたんですが、そして死にかかってる。吐き出さすより他に方法は無いんです。
<質問>僕は今高校3年ですが、どういう態度を取っていけばいいですか。
<岡>親を大事にするというふうな大切なことを忘れないようにされたら良いんです。親を喜ばすと思って、みんなのする通りすりゃいい訳ですね。
<質問>先生は天皇制を認められてるようですが、どうしてですか。天皇制で天皇陛下に道徳的なものだけを持ってほしいと言われましたが…
<岡>私は万世一系の皇統というものは万邦無比だと思っている。日本的情緒の中に、天皇制というものがあると思う。西洋の君主と日本の天皇とは種類の違ったものです。西洋の君主は第一の心の世界にあり、日本の天皇は第二の心の世界にあるからです。天皇が日本を「しらす」というのは、心がみんなと一つになるという意味であって、「統治する」という意味ではないんです。そういうのは西洋にはないんです。
 西洋の文化は学問、芸術で、真と美の文化で善が欠けてる訳です。西洋の文明は道徳抜きの文明。道徳的であるためには無私でなければならない。教育勅語のようなものを出していただくとよい。大臣が賄賂を取るというようなことをやったら、陛下は大変ご心配なすって、総理大臣あたりに、あれはどうしたのかと御下問になる。それでよいわけです。そういう人が全く欠けている。
 


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