子供の幸福を犠牲にする「異次元の少子化対策」

岸田政権の「異次元の少子化対策」には重大な欠陥がある。その中核に「子育て支援」という名の母子分離政策があるからだ。子供の幸福を犠牲にした、経済優先、労働政策偏重の「保育サービス」の充実策は少子化対策にはならないことに気付くべきだ。
 保育サービスの充実という外圧的な動機付けよりも、子供を生み育てたいという内発的な動機付けにもっと力を入れる必要があるのではないか。そのためには、労働者としての親の経済的支援のみならず、教育者としての「親育ち」支援が必要不可欠である。
 次世代育成支援対策推進法は第3条(基本理念)において、「子育ての意義についての理解が深められ、かつ、子育てに伴う喜びが実感されるように配慮して行われなければならない」と明記している。
 しかし、「保育サービスの充実」が「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮」という基本理念を実現するものとは到底思えない。
 メリーランド州立大学のジョージ・リッツア教授は『マグドナルド化する社会』(早大出版部)において、効率性などの制御を重んじる「マグドナルド化する社会」が子育てにまで及んでいることに警鐘を乱打している。
 マグドナルド化する効率的な社会に子育てを合わせるのではなく、少子化する社会そのものを変革していく必要がある。そのためには「子育てに伴う喜びが実感されるように配慮」する少子化対策が必要不可欠である。
 ドイツの童話作家ミカエル・エンデの作品『モモ』の主人公の少女が時間貯蓄銀行の灰色の紳士から街に時間を取り戻したように、親と子が共に過ごす時間と空間を取り戻すことによって、経済論ではなく幸福論の見地から一体何が人間に幸せをもたらすのか、という人間としての生き方の原点に立ち返る必要がある。

『ママがいい』の著者・松居和氏の警告

 親学推進協会の顧問、埼玉県教育委員長であった松居和氏は次のように警告し、本質的な問題提起をしている。

<欧米で、半数近い子供が未婚の母から生まれる社会をつくり、「社会で子育て」という「偽の約束」が、シングルマザーの異常な増加と、近親相姦や親による虐待につながっていったことは明らかなのに、先進国から来る警告や報告は耳にしても、それが印象に残らないように操作されている。それどころか、欧米を見習え、日本は遅れている、という学者さえいるのです。
 「待機児童をなくす」という選挙公約や、保育政策に関するマスコミの報道に、「子供たちが可哀想」という反論ができなくなっている。しかし、保育者の善意と、女性らしさに頼って誤魔化すにも、限度がある。…
 女性のパワーゲーム、マネーゲームへの参加率が大きく影響する「国連の幸福度調査」にも、それがよく現れています。…幸福論から人間社会を切り離そうとすることが、今のグローバリズム。その中心に母子分離政策がある。…
 子供たちは「ママがいい!」と言っています。「子供たちが可哀想です」という言葉は絶対に発せられない。そうして、子育てに対する「意識」が麻痺していく。…
 日本中に満ちる「ママがいい!」という叫びとすすり泣きが消えるまで、慣れるまで、親の目から離される仕組みが作られている。性的役割分担の押し付け、「権利」「平等」などという言葉で、「可哀想」という言葉が、かき消されていく。
 小さな子供たちの無数の「諦め」が、その陰にあって、「利他」の伝承が、途切れていく。三歳までに発達すると言われる人間の脳にとって、この時期の「諦め」が何を意味するのか、生きていくために大切な歯車が、そこで一つ欠けていくのではないか。
 発達障害や愛着障害の大半が、この「諦め」が原因ではないのか。0歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えているのも、その根底にこの「諦め」があるのではないか、真剣に考えた方がいい。
 人類未体験の不自然な連鎖が「慣らし保育」の名で行われている。がっかりし、心を痛め、去っていく保育士の後姿に、誰も声を掛けない。
 慌てて、次の保育士を探している。その心の動きに、市場原理による「支配」が見える。政府によって、保育を「サービス」と思い込まされた、要求ばかり主張する身勝手な親たちが増え、仕組みをさらに追い詰める。…
 乳幼児たちは、人類にとって一番の相談相手でした。この人たちを生かすことで、生きる動機と道筋を手に入れた。国の子ども子育て会議が、11時間
保育を「標準」と決めたとき、誰も「可哀想」とは言わなかったのでしょう。
 「平等」という架空の「正論」に縛られ、会議自体が人間性を失っていたのです。それを主張できない乳幼児の「願い」が価値を失っていった。弱者の悲しみや諦めが、人々の視界から消え、「可哀想」という表現さえ封じられた。
 幼児の「諦め」(慣らされること)を「自立」(自律)とか、自主性と呼ぶ学者たちさえいる。システムを成立させるための「こじ付け」は、最近限度を超えている。…
 進化は性的役割分担で成り立ってきたのだし、宇宙は陰陽の法則で動いている。子供たちが、人間であることを諦め始めている。そのことに気づいてほしい。…
 政府には、この国の最後の砦が見えていない。絆を育てる最適な手段を、雇用労働施策の元に壊そうとしている。「当たり前のこと」を口にすべき時が来ています。子供たちは、誰でもいい、とは言っていない。
 西洋の「学問」と東洋の「祭り」(哲学)が対峙しているのだとしたら、この国にはまだチャンスがある。午睡の時間にしのび泣く乳児クラスの男児に、「頑張れ」と言うのは人間性を逸脱している。それを知っている国だと思うのです。
 「可哀想だ」と感じたら、それを口にし、周りを見回す。人間「社会」はそこから始まるのです。…「ママがいい!」という言葉を、これ以上聞き流してはいけない。

朝日新聞に掲載された保育園長の投書

 朝日新聞:オピニオン&フォーラムに「安心して休める子育て社会を」という静岡県の保育園長の以下の投書が掲載されているが、全く同意見である。

<「ママがいい~」。午睡の時間帯、男児のしのび泣きが乳児クラスから聞こえてくる。保育士さんが手で背中を優しく押しながら揺らす「魔法の背中トントン」のかいもなく、彼は一人寝そびれたようだ。保育業界には「慣らし保育」という子供にとって少々気の毒な言葉がある。家庭(家族)しか知らなかった乳幼児を日に数時間の園生活に適応させようと、徐々に父母から切り離す訓練期間のことだ。早くて一週間遅くても一月経てば登園時の涙のお別れシーンは落ち着いてくる。
 この3月まで大学で「子育て支援」などを教えてきた。家庭にはそれぞれ事情があって、大切な子供を園に預けざるを得ないことは理解しているつもりだ。しかし4月から保育園で働き始め、しのび泣きを聞くと、どうしても「頑張れ!」より「可哀想に」を口にしてしまう。
 「こどもまんなか社会」を掲げるこども家庭庁が4月に発足した。子供の利益を第一に考えるなら、子育てのために父親も母親も安心して仕事を休める社会の実現を望む。父母への経済支援や保育施策の増設よりも、親子が少しでも長く一緒にいられる方策を、国は考えて欲しい。>

4期8年務めた内閣府の男女共同参画会議で私が主張し続けてきた子供の最善の利益・幸福を第一に優先すべきだという主張とお二人の思いは同じだ。
 
 

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