水琴窟の音に「和敬清寂」を感じる感性

 東京芸術大学大学院楽理科博士課程を修了し、同大学の博士号を取得した私の姪(妹の長女で、勝岡寛次氏の妻)が平成12年10月28日に開催された教育改革国民会議の公聴会で学生の立場で提言した内容の一部を紹介したい。

 西洋音楽と違って日本音楽では作曲という概念が希薄です。これは、私たちの先祖にとって音楽とは神から与えられるものであって人間が作るものではなかったからです。また、日本では千年以上もの間、雅楽が継承されていますが、雅楽というのは人間の喜怒哀楽とは関係のないもので、宇宙の秩序を再現し、大自然の声を模倣したものです。また、邦楽では「型」が尊重されますが、これは私たちの先祖が師の芸術を尊び、古人の精神を守り、積極的に与えられた「型」の中に自己を溶かし込んできたためです。
 伝統邦楽の世界に歩み寄るとき、私たちは神や自然を敬い、先人の文化に自らを同化させてきた先祖の謙虚で敬虔な姿に出会います。子供たちがそのような先人の姿を身近に感じ、先人の築かれた文化に誇りと感謝を持てるようになることは、何よりも彼らに生きる力を与えていくのではないでしょうか。学習指導要領で目指される「豊かな人間性」も、自分たちの足下に築かれた伝統とのつながりを子供たちが自らの内に発見し、見つめ、実感していく中にこそ培われていくものではないでしょうか。…
 教育基本法は、当初の草案の段階では「伝統の尊重」という項目が含まれていたと聞いております。それを、封建社会の復活を恐れた占領軍が削除したということも今日では明らかになっているようです(髙橋史朗著『総点検・戦後教育の実像』PHP研究所、参照)。このような、伝統文化を軽視する教育基本法が発布された二年後、東京芸大の邦楽科は一時期、廃止の危機に見舞われたそうです。教育基本法は音楽を目指す一学生に過ぎない私にとっても無縁の存在ではないんだと強く思うようになりました。
 「伝統の尊重」という項目の無い教育基本法だからこそ、音楽の先生は未だに日本音楽の音階すら分からない状態になっているのではないでしょうか。音楽教科が西洋音楽のみならず日本の伝統文化の素晴らしさを子供たちに伝える場となっていくためにも、教育基本法の中に「伝統文化を継承する」という趣旨が明記されますことを強く希望しております。
 私が中学・高校で受けてきた音楽の授業はずっと西洋音楽の授業でした。その授業では音楽をいかに大きく豊かにダイナミックに表現するか、ということが非常に大切にされていました。けれども私は、音楽というのはそんなに大声で叫ばなければならないものだろうか、と疑問を感じ、授業についていけないものを感じていました。
 そんな折、高校生の時だったのですが、修学旅行で行った石川県の庭園で水琴窟というものに初めて出会いました。皆さんは水琴窟を御存知でしょうか。庭園の地面に幾つかの壺が埋め込まれています。その壺の中に地下水が少しずつ滴り落ちる時にきれいな音がします。水琴窟はその音を楽しむための庭園の趣向です。
 私は初めて水琴窟というものを知ったものですから、一体どんな音がするのか興味を持って水琴窟の近くまで行って耳を澄ませました。けれども水琴窟の前まで行っても音は聞こえませんでした。だからしゃがみこんで地面に耳を寄せました。するとかすかにお琴のような音が聞こえてきました。とてもきれいな音なんです。
 けれども、なにぶん水一滴分の音なので、隣にいる友達がちょっとでもしゃべったらもう聞こえないほど、かすかな音です。その音を聞いた時に私の心に広がったのは、音そのものよりは庭園の静寂でした。私はその時初めて辺りの静寂の美しさにハッと気づかされました。そして、水琴窟の音にじっと心を寄せ、静寂を見つめてきた日本人の繊細な感性が思われて心を打たれました。「和敬静寂」という言葉を大切にされてきた人たちとの間には目に見えない心のつながりを感じました。
 学校の授業では、いかに豊かに人の胸に迫るダイナミックな音楽表現をするかということが非常に重要だったと思います。水琴窟の音は、そのような学校の授業の中では感じ取ることができなかったものを私に気づかせてくれました。それは、繊細なものに耳を傾け、人と心が通じ合う喜びであり、自然に静寂の美しさに自らの心が溶け込んでいく喜びでした。
 国際化も大切ですが、子供たちが現に日本の風土の中に生き、日本語を話し、日本で築かれた歴史の中に生きていることに変わりはありません。そうである以上、この日本に育まれた文化に触れていく中でこそ、子供たちの内在的な価値観がもっと活き活きと、より豊かに引き出されていくのではないかと感じます。
 


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