井口潔・終戦記念講演「敗れて目覚める」の再確認!

 6月末に小柳左門先生から送られてきた井口潔「第76回終戦記念」講演の資料を3回に分けて紹介してきた。まさに井口潔氏の「遺言」とも言うべき講演となったが、その冒頭部分を紹介して4回の連載を締めくくりたい。

吉田満『戦艦大和ノ最期』(講談社)

 1945年4月6日1600 戦艦大和は呉軍港を孤立無援で沖縄特攻攻撃に片道燃料で出発、ガンルーム(青年将校の屯する場所)で学徒出身将校と兵学校出身将校の激論がありました。

<学徒出身将校>
今次大戦の目的は何か?俺たちは何のために死ぬのか、それがわからん。その哲学がわからん?
<兵学校出身将校>
お国のために死ぬのだ。天皇陛下万歳と叫んで死ぬのが本望ではないか!哲学とやらは無用の長物だ!精神がなっとらん。

 後は鉄拳制裁の繰り返し。

<ガンルーム室長(白淵大尉)の持論>
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ!日本は進歩ということを軽んじすぎた。敗れて目覚めるのだ。それ以外にどうして日本は救われるのか。今目覚めずして、いつ救われるのか。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」

 この白淵大尉の持論に反論する者はいなかった。

 終戦記念日75回、終戦平和を手にした祖国日本では、マスメディアの社説等で「敗けて目覚めよ」の決意の論議は見たことがありません!人間教育不在75年が放置されたままで善いはずがない。百歳を迎えた一外科医の老生は、今年第76回終戦記念日では、記念講演を行う決意をしました。
 1942年に九州大学医学部に入学した老生は、卒業までは徴兵延期になりましたが、1945年4月戦艦大和の沖縄特攻攻撃と時期を同じくして軍医候補生として出陣しました。旧制高校の文科系学生は1943年10月に第一線に配置され、特攻要員として散華しています。老生の終戦記念講演は嘗ての「親友の死」に対する当然の責務です。

今次大戦後の祖国の人間教育の実相

 昭和5年、ロンドンにおける海軍軍縮会議で英米日の軍艦総トン数は5・5・3となり、国民は軍部の弱腰に不満たらたらで下級将校の職場にも困ることになり、男子学校には配属将校が配置されて、軍事教練が行われるようになり、生徒の精神教育は軍部が掌握することになりました。
 終戦とともに若者の人間教育は停止し、伝統的道徳教育はGHQによって禁止されました。アメリカ流の自由主義教育が押し付けられたが、これはアメリカ国内でも批判を受けて自壊する混乱も起こり、戦後日本は家庭・学校教育が共に混乱し,1990年頃にはアメリカ教育界の二の舞が日本でも起こりました。
 即ち平和の時代に人間はどのように生きなければならないものかの規準の教育が疎かになったのです。戦後3/4世紀が経つというのに、人間教育の体制がいまだにできないという夢想だにしない問題が放置されているのが現状です。

江戸・明治の人間教育の考察(第1・2幕)

 1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、自分の手で江戸幕府をつくる体制を熟慮して、平和の時代を維持するために必要な条件として次の結論を得ました。
 戦国時代を動かした「武士道精神」を平和の時代においても貫通すべしとの哲学でした。これを江戸時代の基本路線として、幼年期教育の制度として1200を超える藩校・寺子屋塾を全国に創り、世界に冠たる教育国家が実現しました。
 明治に入り欧米の物質文明の導入のために富国強兵の帝国を建設して、自衛のための日清・日露戦役に勝利を収めましたが、その人間力の源泉は江戸期の「武士道精神」が基礎となりました。
 たまたま1900年に清国北京の列国8ヶ国の公使館が義和団と称する民間の空手団体に包囲された「義和団事件」において、日本駐在武官の紫五郎中佐は、見事な掌握、指揮能力により、辛くも危機を突破しました。初めは目立たない存在の紫中佐は、国際通用のフランス語を流暢に話し、中国の民意にも詳しく、列国8国の総指揮を任せられることになりました。
 日本軍の軍律の厳しさは有名でしたが、公使館の負傷者収容所では、立ち働く外交官夫人、家族の気配りの上手さ、援軍のない危機感で発狂寸前の欧米人に対して、気分を引き立てるためにお道化てみたり、勇気づけたりした「武士道精神」の心配りは列国の評判となり、なかんずく英国のヴィクトリア女王は、このような質の高い道徳精神をもつ民族と親しくなっておくことは、英国の将来のために必ず意味があると考え、日英同盟の締結を申し出て、考えられない迅速さでこれを実現しました(1900年8月包囲解除、1901年1月に日英同盟締結)。
 日露戦争でロシアと戦わないと日本は危機に陥ることは必至で、日英同盟の締結は戦費調達の救い水となりました。「道徳心」は所詮、個人の人格という常識を離れて、「道徳心」が国難を救ったという信じられない幸運にも恵まれました。

昭和維新とは何だったのか(第3幕)

 それまでの江戸期・明治維新は「武士道精神」の人間力が基盤となったものでしたが、昭和初期はこれとは全く異質の思考過程で動き始めました。1940年7月、近衛内閣は次の「国策基本要綱」をつくりました。それは皇国の八紘一宇を精神とした東亜新秩序の建設であり、紀元2600年の大祝典が催されました。この皇国の崇高な使命を理解しない中国の迷妄を解き放ち、欧米列強の中国支配を打破するための聖戦が支那事変であったことを国民に知らしめる群集心理の醸成が、ミリタリズムの正体でした。
 ところが、人間には本来備わっているところの物事を善悪・正邪に分ける「道徳の直観的観念」があります。これ即ち<「徳」の観念>です。昭和初期の衝動的八紘一宇精神と、それを裏付けるミリタリズム・テロリズムには「徳の香り」がしません。江戸時代・明治維新には「徳の香り」がします。この矛盾は「自我」のなせる業です。
 2・26事件(1936年)は当日早朝、私が風呂場で洗面をして居間に行くと、善良そのものの父親が、2・26事件の号外を持った手をブルブル震わせて、「
アアダメダ!日本はダメニナッテシマッタ!」と呻いてうずくまっている姿を今も忘れられません。善良一筋の一市民が「日本はコレデダメニナッテシマッタ」との直観には、人間本来の怒りが含まれています。道徳・徳の道を踏みにじって何の八紘一宇か!第1・2幕の武士道精神の誇りは昭和初期には全く異質のものに豹変してしまっていたのです。
 道徳心の欠如を何とも思わなかったミリタリズム・テロリズムが戦後の教育を3/4世紀に亘って荒廃させ、日本を立て直す人間力を喪失させるという大罪を犯してしまったのです!昭和維新の過誤は「知性の自我」にまとめられると老生は考えています。


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