西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」と鈴木大拙「即非の論理」

●子供の遊びと無の境地一「無功用行」の特質
 鈴木大拙全集第20巻に、次のような興味深いエピソードが書かれている。

<先年アメリカで出た小説みたいな本に、子供の生活を描いたのがあって、それが一時はベスト・セラーになった。その中に、次のような会話がある。
 子供がしばらく留守し、帰ってきたので、家のものが尋ねた。
「お前どこへ行っていたの?」
「外にいた」
「何していたの?」
「何もしていないの(”nothing”)」>

 この会話について、鈴木大拙は次のように解説している。

<子供の主観から見ると、百般の活動態はいずれも遊戯でしかないのだ。何らかの努力もなければ、何らの目的も意識せられぬ。ただ興の動くにまかせ、そのままにすぎないのである。当面の子供から見れば、何もしていないのだ。…これを仏教者は、ことに他力宗徒は「修羅の琴のひきてなしに、自ら鳴る」ようだという。誠にその通りである。老子の「無為」である。東洋人のよくいう「無我無心」である。ここに「自由」の真面目が活躍する。またこれを活発発地ともいう。(『大拙全集』第20巻,374頁)>

 この会話の最後の「何もしていないの」という子供の回答は、無(”nothing”)の一字にすべてが語られている。対象的に把握されるものがないのみならず、主客二元対立の中での自我も超えられ(無我)、はからうことなく(無心)、滞ることもなく、むしろはたらいてやまず、そうしたすべてが「何もしていない」という回答に凝縮されている。
 鈴木大拙は『東洋的な見方』(岩波文庫)において、自由と行為の関係について、次のように述べている。

<その行動は報いをも求める行動ではない。無目的の目的で働くのである。これを「無功用行(むくようぎょう)」という。自由性の発動である。松はその松たる所以を自覚せず、竹はその竹たる所以を意識しないで、松になり、竹になっているように、仏や菩薩は達磨の「無功徳」と「不識」とで、慈悲行三昧である。これを創造の生涯というのである。詩の境涯である。一行三昧ともいう。また神通遊戯(じんずうゆげ)ともいう。「水を飲み薪をはこぶ」の妙用ともいうのである(同135頁)>

●『金剛般若経』の核心
 経典に説かれる、常識をはるかに超えた素晴らしい働きは、実は日常繰り返し行っている普通の行為の中にこそあるというのである。松は松であるように、竹が竹であるように、まさにそのものがおのずからそのものであるときに、その本性から発する行為がある。それはそのものの本性に根差すものであるので、自発的な行為となり、報いを求めるようなものとはならない。その意味では、目当てがあるわけでもない。そのように、ただ自己の内発的な意思に基づいて行動する時、それを「無功用行」と呼ぶのである。そういう行為を鈴木大拙はここで「創造の生涯」とも「詩の境涯」とも述べているのである。
 鈴木大拙は『金剛経の禅』において、「無功用」、功利を求めない働きということを取り上げたり、「無報償」、報償を求めない行い、あるいは「無心の赤ちゃんの行い」ということを取り上げ、その思想について論じている。何か利益や名誉などを得ようという目的をもって行為をするのではなく、無分別において、ひたすら行じる。そしてその行為をしたという跡を払う、跡をとどめないことについて盛んに論じている。

●「日本的霊性」の論理、禅の論理
 鈴木大拙は若い頃、鎌倉の円覚寺において真剣に参禅修行し、『金剛般若経』第13節に「仏の説きたもう般若波羅蜜は即ち般若波羅蜜に非ず.是を般若波羅蜜と名づく」とある教説について、次のように解説している。

<これを延書きにすると、「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、即ち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名付けるのである」、こういうことになる。これが般若系思想の根幹をなしている論理で、また禅の論理である。また、日本的霊性の論理である。(『金剛経の禅』、『大拙全集』第5巻、380~381頁)>

  「○○即非○○、是名○○」という教説が、○○を変えつつ繰り返し登場するが、これは特殊な論理ではない。『般若心経』において「色即是空、空即是色」と説いていることと同じこととして理解できると説く仏教学者もいる。しかし、鈴木大拙はこの漢訳の句の中に「即非」とあることから、そこに即と非とが直ちに一つであるような事態を読み込もうとしている。たとえば、『禅への道』では、次のような形で「即非」に言及している。

<「非」とは根本の矛盾を言う。「そうだ」と「そうでない」との対立を言う。即ち生死の世界、寒暑の世界、絶対に相容れぬものの抗争を言う。「即」とはこの絶対に相容れぬものが、そのままに同一性という場面に動いているとの義である。同一性というもの―「即」―が別にあって、それで相容れぬもの一「非」一を包むというのではない。
 「非」がそのままに「即」、すなわち絶対に相い「非」すること、それが直ちに「即」なのである。「即」と「非」とはそのままで同一なのである。一方から他方へ移ることがないのだ。(『大拙全集』第13巻、274~275頁)>

●「即非の論理」
 何か即が別にあって、それで非を包むというのではなく、絶対に相容れないこと、互いに対立すること、それがそのまま「即」なのであり、即と非はそのままで同一なのである、と説明しているのである。そしてさらに、「それ故、この論理を成り立たするは、普通にいう知的分別を棄ててしまわなくてはならぬ」(同275頁)という形で、「即非の論理」を解説しているのである。
 ここで注目されるのは、非を否定というよりも、対立と置き換えて説明していることである。対立とは、主観と客観、二元対立的な分別として理解できる。主客分裂が直ちに主客未分であり、知的分別による迷いの只中に実は真実の把捉があるというのである。こうして、鈴木大拙はこの世界は対立がそのまま一つであるのがその実相なのであり、そこに眼を開くのが禅であると考えたのである。
 このように鈴木大拙は、経典の教理に基づいて空の知的理解によって実相に迫るのではなく、否定即肯定の事実を体認することがより重要であり、『金剛般若経』はそのことを繰り返し明かしていると訴え、このような了解を踏まえて、それを「即非の論理」と名付けたのである。
 禅の悟りが開けると、そういう根本的な対立がそのままで解決される。あらゆる対立・苦悩がそのままで超えられる、そういう世界が見えてくると示しているわけである。
 私の母と祖母の実家はともに浄土真宗のお寺であるが、浄土真宗では「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断たずして涅槃を得る)と説き、「煩悩即菩提」であり、煩悩を持ったままで、そのまま救われる、と説いている。
 鈴木大拙が指摘した「日本的霊性」は、この身このまま救われるというもので、「即非」という言葉、論理に、「日本的霊性」の論理をも見ていたのである。

●「即非の論理」と「超個の個」
 鈴木大拙が昭和18年に刊行した『禅の思想』では、この「即非の論理」を、世界の在り方にだけでなく、自己という存在にも用いている。前述した『禅への道』では対立の世界が非で、それが全く同一であるのが即だという仕方で「即非」の意味を説いていたが、この『禅の思想』では、主体としての個とその背景としての超個との関係の対立が「非」で、しかもそれがまた一つであるという場面で「即非」という言葉を用いている。
 つまり対象的世界に「即非」を観るのではなく、自己の存在構造の論理として「即非」を語るようになってきているわけである。「この個は個でしかも超個である、超個でしかも個である。これは般若の即非的弁証法論理である」(同119~120頁)と説き、「即非の論理」はかなり実存的、主体的な、自己そのものの存在のありようを語るものとして了解されていたと言える。換言すれば、自己そのものを、自己を超えたものと自己とが一体であるという「超個の個」と捉える立場である。

●西田幾多郎と鈴木大拙の照応する思想
 鈴木大拙のこの思想は、京都学派を創始した西田幾多郎の宗教哲学と軌を一にするものである。西田は「場所的論理と宗教的世界観」という論文において、大拙の「即非の論理」を引用しながら、次のように述べている。

<どこまでも相対的に、自己自身を翻す所に、真の絶対があるのである。真の全体的一は真の個別的多において自己自身を有つのである。神はどこまでも自己否定的にこの世界においてあるのである。この意味において、神はどこまでも内在的である。故に神は、この世界において、どこにもないとともにどこにもあらざる所なしと言うことができる。仏教では、金剛経にかかる背理を即非の論理をもって表現している(鈴木大拙)。(『西田幾多郎全集』第11巻、398~399頁)>

 このように西田は、絶対者の自己否定において各人が成立するのであり、そこに「即非」(超個の個)の事態があり、「逆対応」の事態があると説いている。さらに西田は、禅が説く悟り、すなわち「見性」との関連で、次のように説いている。

<禅に対する世人の誤解について一言しておきたいと思う。禅というのは、多くの人の考える如き神秘主義ではない。見性ということは、深く我々の自己の根底に徹することである。我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。…自己が自己自身を知る自覚ということが、自己矛盾である。故に我々の自己は、どこまでも自己の底に自己を超えたものにおいて自己を有(も)つ、自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一の根底に徹することを、見性というのである。そこには、深く背理というものが把握せられなければならない。禅宗において公案というものは、これを会得せしむる手段に他ならない(同445~446頁)。>

 このように西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の論理と鈴木大拙の「即非の論理」の思想が照応している点が注目されるが、鈴木大拙は「即非」を「無分別の分別」とも言い、これこそが悟りの論理であり、「般若即非の論理」であると説いている。
 この京都学派の西田哲学を継承する「哲理数学」を来年度から担う光吉俊二東大大学院道徳感情数理工学講座特任准教授の「四則和算」の「哲理数学」と西田幾多郎の前述した宗教哲学が論理的、思想的にどのように繋がるのかに注目したい。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスとの対立・分断から脱却して、日本が「道理の媒介者」として「領導」する「平和の哲学」を「日本的ウェルビーイング」の新たなビジョン・理念として世界に発信することが時代の要請なのではないか。その「平和の哲学」のヒントを西田哲学、それを継承する「哲理数学」に見出すことができるのではないか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?