ABEMA Primeで広島市長教育勅語問題について私が訴えたこと

    2月23日夜のテレビ朝日報道局クロスメディアセンター「ABEMA Prime」で、広島市の職員研修で松井一実市長が教育勅語を研修資料に使用した問題について、2チャンネル創設者の「ひろゆき」氏、お笑い芸人のカンニング竹山氏らと討論した。

 事前にこの問題についての市長の記者会見を視聴し、会見記録を何度も読み返し、市長は座右の銘である「温故知新」の一例として、先輩がつくった「いいもの」と「悪いもの」を是々非々の姿勢で受け止めて、教育勅語を全面否定しないで、自分でよく事実を確認して、その評価について多面的に考えることの大切さを強調したもので、曇りのない眼で見れば全く問題がないと確信した。

●嚙み合わない市長と記者のやり取り
 記者会見で目立つのは、記者との質疑応答がうまくかみ合っていない点である。記者会見で市長が強調したのは、「全部否定ではなくて、その当時民主主義を本当にしようとした日本国もあったと評価する、民主主義を取り込もうとした努力をしたという評価する部分はあるんだよ。よく自分でなるべく確認(fact finding)してみて、どうかなということを吟味しながらやると、それも温故知新の重要な考えです」ということであった。
 これに対する記者の質問は、「戦前の軍国主義下の文章を使うのは国際平和文化都市として適切ではないかというような市民の意見もある中で、それをどう市長は受け止めていらっしいらっしゃいますでしょうか」というものである。
 これに対して市長は、その材料を使ったからといって、今みたいなコメントを加えられるのは非常に私としては心外です。どういう説明をするかが問題のはずでありまして、材料を提供したことそのものが問題視され、勉強することそのものが否定されるべきではない、と反論した。
   教育勅語の内容の「いいもの」すなわち”光”のプラス面を評価する市長に対して、「悪い部分」はどこかと"影"のマイナス面を聞き出そうとする記者とのすれ違いが顕著にみられる。

●日本的民主主義と教育勅語
 一方、引用の撤回を求める市民団体も、現憲法下で「爾臣民」は死語で禁句、徳目にある「兄弟に友に」は、差別的で憲法違反、と教育勅語を全面否定しているが、「爾臣民」という明治時代の言葉を現代の基準で裁いたら、歴史をその時代の歴史として教えることができなくなる。 
 市民団体は教育勅語のどこが民主主義的なのか説明せよというが、昭和天皇が昭和21年元旦の「新日本建設の詔書」の趣旨に関して「日本には民主主義があった」ことを記者会見で強調されたように、日本には日本独自の民主主義が深く根付いており、教育勅語には「億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セル」「咸其徳を一ニセンコトヲ庶畿フ」など、天皇と国民が一体となった日本独自の民主主義的精神が表現されている。
 このような日本的民主主義の精神は、五箇条の御誓文においても、「万機公論に決すべし」「上下心を一にして」「天地の公道に基づくべし」「官武一途庶民に至るまで各其志を遂げ」「万民保全の道を立てんとす」などの文言に貫かれている。

●教育勅語は「社会上の君主の著作広告」
 そもそも教育勅語は井上毅によって、「政治上の命令ではなく、君主の社会上の著作広告」、すなわち天皇の個人的なお言葉として起草されたために、法的な効力を有する詔勅には不可欠な大臣の副署がないのである。 
 にもかかわらず、後年の文部行政は教育勅語を「唯一絶対視」したために、実際には「政治上の命令」の如く歪められてしまったのである。狂信的な国粋主義・教条主義的立場から儀式における奉読や暗誦などが重んじられ形骸化の一途を辿るという過ちを犯した。
 しかし、扱い方を間違ったために戦争に利用されたからといって、教育勅語の内容自体が間違っていたわけではない。市長が「生きていく上での心の持ち方」として「評価してもよい部分があったという事実を知っておくことは大切だ」と述べたのは重要な指摘と言える。

●単純な対立図式からの脱却
 かつて国旗・国歌の法制化をめぐって国会に参考人招致された折に、社会党の国会議員の質問に対して、国旗・国歌は軍国主義に利用されたと批判するが、ナイフは名医が使えばメスになるが、強盗が使えばドスになる。ナイフそのものは善でも悪でもない。それを利用する者次第なのではないか、と説明したが、「扱い方」と「教育勅語の内容」の問題点についても同じことが言えるのではないか。
 「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」が問題だというが、『戦艦大和ノ最期』の著者である吉田満は「国家の存在を認める限り、その基本的要請に国民が答えることは、古今東西を通ず公理」と指摘しているが、その通りであろう。
 最大の問題は戦前と戦後を単純な対立図式で短絡的に捉える点にある。戦後教育史の定説は、戦前の「教育勅語体制」から戦後の「教育基本法体制」に180度転換した、というものであるが、「事実を確認」したところ、全くそうではなかった。このことは2月23日付note拙稿に詳述したので参照されたい。
 教育基本法は教育勅語を全面的に否定したというのは「歴史の歪曲」であり、後の解釈によって歴史的事実を捻じ曲げることは不当である。過大視と過少視の両極端を拝し、客観的にバランスの取れた配慮をする必要がある。

●縦軸の「不易な」共通性の価値と横軸の「流行の」多様性の価値
 市長は「よく自分でなるべく事実を確認して吟味」し、「その評価について多面的に考える」必要性を強調したが、私自身はまず教育勅語の教育を受けた方々がなぜ国会で全会一致で教育勅語を否決したのかという根本的疑問を抱いて当事者にインタビューしたが、「問答無用!」と怒鳴られ、アメリカ留学を決意し、膨大な占領文書研究を通して「事実を確認」するに至った。
 GHQ民政局の「口頭命令」によって国会での教育勅語排除失効決議が強要された過程を実証的に解明し、政府の臨時教育審議会の総会で報告し「審議経過の概要」に明記された。スタジオではなぜ130年前の「古すぎる」教育勅語を今更持ち出すのかという声が支配的であったが、「不易な」縦軸の価値は「古すぎる」という現代の尺度で測ることはできない 
 「不易な価値」は「古今ニ通シテ謬ラス」という時代を超えた縦軸の「共通性」の価値であり、「流行の価値」は時代とともに変わる横軸の「多様性」の価値である。今回の問題を通して、単純な二項対立図式、先入観や偏見から脱却して、歴史の光と影、共通性と多様性の両側面を曇りのない眼で直視する必要があることを改めて痛感した。
 最後に道徳とは何かが議論になったが、道徳の根本は「共感」にあり、自分、家族、友人、郷土、国、世界、自然、地球を温かい目で見る共感性を身近な足元から広げていくことが重要であると、議論を締めくくったが、教育勅語の以下の12の徳目と直結している。
 ⑴孝行、⑵友愛、⑶夫婦の和、⑷朋友の信、⑸謙遜、⑹博愛、⑺修学習業
⑻智能啓発、⑼徳器成就、⑽公益世務、⑾遵法、(12義勇




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