「本当の幸福」を探し求めた宮沢賢治

 「本当の幸せ」とは何かを探し求めた宮沢賢治は、宇宙には意志が働いていると考え、その「宇宙意志」は 「あらゆる生物をほんとうの幸福に齎したいと考へている」と1929年の書簡に書いている。賢治が書いた童話『虔十公園林』の最後は次のように締めくくられている。

<全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすがすがしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だか教へるか数へられませんでした。>

 『農民芸術概論綱要』序論に「求道」と記されているように、真実を追い求める姿勢こそが、賢治の生涯にわたって貫かれるもので、童話や詩を書くことを通して賢治はそれを追求した。
 「わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」と序文に書いた『春と修羅』や、人々を乗せた鉄道を初めて銀河の宇宙空間に走らせた『銀河鉄道の夜』などで、「本当の幸い」とは何かを求め続け、自身が「業」にとらわれた人間であると同時に「花びら」でもあることを、次の詩で表現した。

<「業の花びら」
   夜の湿気と風がさびしくいりまじり
   松ややなぎの林はくろく
   そらには暗い業の花びらがいつぱいで
   わたくしは神々の名を録したことから
   はげしく寒くふるへてゐる>

 この詩は、賢治の死の2年後に、詩雑誌『四季』に遺稿として発表されたものである。現在、花巻市に立つ宮沢賢治の詩碑には「雨ニモマケズ」の一節が刻まれているが、賢治の内面を最もよく理解していた父・政次郎が詩碑にと推薦したのは、この「業の花びら」であったという。
 大正14年4月13日に知人にあてた手紙に、賢治は次のように書いている。

<わたくしはいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけには行きませんから、多分は来春はやめてもう本当の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。>

 賢治は「本当の百姓」になるべく教職を辞し、唯一の芸術論である『農民芸術概論綱要』の序論に、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」と記した。
 弟の宮沢清六は、賢治の臨終の様子を次のように記している。

<父は「遺言することはないか」と言い、賢治は方言で「国訳妙法蓮華経を千部おつくり下さい。お経のうしろには『私の生涯の仕事はこの経をあなたのお手もとに届け、そして其中にある仏意に触れて、あなたが無上道に入られますことを』ということを書いて知己の方々にあげて下さい」と言った
(宮沢清六『兄のトランク』ちくま文庫)。>

 宮沢賢治が法華経を篤く信仰していたことは、彼が遺した詩や作品、手紙などから知ることができるが、父親に宛てた手紙の中で、「小生、すでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と記し、阿弥陀如来を信じて念仏を専らにすることを宣言している。
 法華経を唯一絶対の教えと位置付けて、鎌倉時代に教化活動を展開した日蓮の教えに傾倒したが、そのきっかけとなったのは、田中智学との出会いであった。田中は国体思想と日蓮の法華経を基底とした思想を結合しながら、信仰を超えて政治・経済・文化・芸術などの社会全般にわたって、
日蓮の思想を反映させようとした。
 大正3年から10年にかけて、法華経と田中智学を通じて賢治は日蓮の思想と行動に触れ、日蓮門下の近代化を図るための改革を提唱するに至り、遺言にあるように、最後の仕事は、法華経を縁のある人々に配ることにあった。


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