ユネスコ「世界の記憶」「日本軍『慰安婦』の声」に対する意見書➂(2016,12,22)

 はじめに 
私は米英加などの国立公文書館所蔵文書を長年にわたって研究してきた。そうした経験を踏まえつつ、2016年5月、9カ国及び地域、15団体によりユネスコ「世界の記憶」に共同申請された「日本軍『慰安婦』の声」と題する資料について、現時点では全容は不明なるも、ユネスコのHP上などで公開されている利用可能な情報を踏まえ,問題点について意見を表明したい。 

 指摘事項 
1.内容面の問題
(1)ユネスコ設立の趣旨と目的
そもそも,「世界の記憶」事業を含むユネスコのあらゆる事業は,加盟国間の友好と相互理解の促進というユネスコ設立の本来の趣旨と目的に資するべきものである。ユネスコ憲章前文は、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」と謳っている。2011年10月25日の第36回ユネスコ総会決議(36C/Resolution59)において,ユネスコ加盟国は,「世界の記憶」事業が,知識の共有とアクセスの促進,ひいては人と文化間の対話と相互理解に貢献するものであることを確認している。特に,「世界の記憶」登録の手引き2.「登録簿」では,各国別申請件数は1国につき2件までと決められている一方で,複数の国の複数機関の協力による共同提案にはこの制限は適用されず,ユネスコは国際協力を促進する旨明記されている。すなわち,本事業では,関係国との協力が強く促されている。

(2)問題点
 上記(1)に照らして,本件申請の問題点として,以下の3点を指摘したい。
ア 丁寧な対話努力の欠如
第1に,「世界の記憶」事業では関係国との協力が強く促されているにもかかわらず,本件の共同申請者は,関係政府間及び専門家レベルの事前の協力はおろか,今回ユネスコ「世界の記憶」に共同申請された資料についての重要な関係者である日本政府に対し,何らの情報共有も行わず,一方的に登録申請を行った。本来であれば,本件の共同申請者は,申請に先立って,幅広く関係する各国政府や専門家と丁寧に対話を行うべきであったにもかかわらず,そのような努力は払われなかった。

イ 偏った歴史見解を有する団体による申請
第2に,本件申請では,学術的な評価に未だ一致点が見られない様々な論点に関して,一部の団体の独自の立場に基づく一方的な主張がなされている。そのような意味で偏った歴史見解を有する団体による本件申請の背景には,特定の政治的な思惑がある可能性が高い。また,申請対象文書についても,当該思惑に合致する文書のみが恣意的に選定されているとの批判を免れないと考える。具体的な問題点を例示すれば,以下のとおり。
 
(ア)本件申請書には,「性奴隷」という表現が繰り返し使用されているのに加え,「8万人から20万人が強制的に隷属させられた」等の記述が見られる。
他方,これらの点について,日本政府は以下の見解を有している。
①慰安婦が「性奴隷」であるとの表現は事実に反し不適切である。
②日本政府は,1990年代初頭以降,事実関係に関する本格的な調査を行った。右調査とは,関係省庁における関連文書の調査,米国国立公文書館等での文献調査,更には軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査や挺対協の証言集の分析等である。当該調査を通じて得られた,日本政府が発見した資料の中には,軍や官憲によるいわゆる「強制連行」は確認できなかった。
③慰安婦総数の確定は困難であり,「20万人」というのは具体的裏付けがない数字である。
また,本年8月,韓国ソウル大学の李栄薫教授は、慰安所は事実上の公娼制として運営されていたこと,「強制連行」という主張は大部分が口頭記録で客観的資料としての信憑性が貧弱であること,慰安婦性奴隷説について再検討がなされる必要があること,朝鮮人慰安婦20万人説も根拠がなく、最大5000人程度と見るのが合理的であること等につき指摘している。

(イ)申請書は,「慰安婦制度」を「ホロコースト」に匹敵する戦時の悲劇である旨を主張している。この点に関し,あるユダヤ系団体は,そのような表現は「ホロコースト」の意味をねじ曲げているとした上で,ユネスコ設立本来の趣旨に回帰することの必要性を訴えている。
 
(ウ)本件の共同申請者は,「慰安婦」問題解決のための市民団体の活動に関する文書を登録申請しているとしているが,例えば,「慰安婦」問題解決のために日本政府と日本国民が資金協力等をして設立したアジア女性基金の活動に係る資料は申請資料には含まれておらず,申請書にも記述が見られない。右は,本件共同申請者による資料の選択が恣意的でバランスを欠いていることを示している。
 
(エ)慰安婦問題に類似するものは,第二次大戦中または戦後に他の国においても存在していたとされているにもかかわらず,本件申請は,ことさら日本に関する慰安婦問題をプレイアップしようとしている。

ウ 日韓合意への批判と平穏な共生への妨害
本件申請は,日韓両国政府それぞれが2015年12月の日韓合意を誠実に実施している中で行われた。すなわち,2015年12月,両政府は,多大な外交努力を払って,慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認した。この合意を受け,現在韓国の財団は,日本政府の予算をもって,全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復,心の癒しのための事業を行っている。このような中,本件の共同申請者は,日韓合意を批判する立場を明らかにしている。
また,本件申請は,「平和のシンボル」としての慰安婦像の世界的意義を強調しているが,実際には,慰安婦像の設置を含め,慰安婦問題を政治的な意図をもってプレイアップしようとする種々の動きによって,地域社会における様々なコミュニティーの平穏な共生が妨げられる事例が生じている。

(3)小括
以上により,本件申請は,加盟国の政府や国民の間の関係に大きな負の影響を及ぼすおそれがある非常に機微な案件であると言わざるを得ない。本件申請は,ユネスコの政治化を招きかねず,加盟国の友好と相互理解の促進というユネスコ設立の本来の趣旨と目的に反するものである。

2.技術的な問題
(1)資料の適性
「世界の記憶」の一般指針では,登録選考基準の一つとしての真正性(4.2.3)や法の支配(2.5.4)について規定されている。したがって,申請資料の真正性が然るべく担保されているのか,所有権や著作権の問題が解決されているのかについて, 精査する必要がある。また,今般の申請資料の中に,下関慰安婦訴訟のような上級審で否定された下級審判決資料が含まれているとすれば,このような文書が登録に値する資料かどうか十分慎重に検討されるべきである。ついては,①個別具体的な申請資料の開示,②複数の第三者専門家による検証及び現地調査の実施を要請したい。
 
(2)個々の資料の「完全性(integrity)」の問題
「世界の記憶」の一般指針では,資料の完全性(2.5.2)について規定されている。他方,それ自体が一件綴りの中から部分的に抽出されている可能性のあるものも存在する。この点も含め,個々の資料の完全性が満たされているのかについて,慎重に精査する必要がある。
 
(3)オーラルヒストリーや絵画等の登録適否オーラルヒストリー,特に戦後40年以上経過した90年代以降に記録された口頭証言という形態が「世界の記憶」としてふさわしいものなのかについては,IAC(国際諮問委員会)及びRSC(登録小委員会)として,証言の対象となっている事象の真正性の確認が困難である等の論点も踏まえ,慎重に検討を行うべきではないかと考える。
仮に,一般論として,オーラルヒストリーという形態が「世界の記憶」の要件を満たしうるとしても,本件共同申請者が各オーラルヒストリーの真正性は検証済と主張しているものの,元慰安婦/元日本兵の証言者の証言内容は時期により変遷しているとの研究もあることに留意する必要がある。
また,一般指針2.6.2においては,絵画や手工芸品等のnon-reproducibleなものは記録遺産に含まれず,また定義の一要素としてthe product of a deliberate documenting processである旨規定されている。かかる規定に照らして,元慰安婦の絵画や手工芸品等の申請対象資料が「世界の記憶」としての要件を満たすのかについても,慎重な検討を要する。
 
(4)倫理規定との関係
「世界の記憶」事業の倫理規定において,IAC及びRSC(登録小委員会)委員は,特定の申請について個人的支援をするような言動は差し控えることが求められている。したがって,審査する委員は,申請者との接触について慎重であることが求められる。他方,本件申請には,一部の委員が共同申請者に加担していた疑いが持たれている。仮に右が事実であれば,本件プロセスに重大な瑕疵があったと言わざるを得ない。ユネスコ事務局および関連委員は,厳正中立の立場から,審査にあたる必要がある。
 
 結語 
以上の理由により、本件申請は,非常に機微な案件であり,加盟国の友好と相互理解の促進というユネスコ設立の本来の趣旨と目的に反するものと言わざるを得ない。また,本件申請が「世界の記憶」事業の関連規定が定める基準を満たしているかにつき慎重な検討を要することを含め,様々な技術的な問題を内包している。したがって,本件申請をユネスコ「世界の記憶」としての登録することは,見送られるべきであると考える。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?