「ヒトの脳生理学」から道徳・教育を問い直す⑵

 ●稽古は「知性の感性化への道程

 井口潔によれば、趣味は実利でなく無目的なところが良い。目的を持つものは実利と関係が多く「知性」的である。無目的で好きなものは「感性」の世界のものであり、これを無の境地で楽しむ智慧が「稽古三昧」である。
 ピアノの「稽古」と言うが、ピアノの「練習」とは言わない。「稽古」とは「古き稽(かんが)え」の意かと不思議に思って調べてみると、広辞苑には次の4つの意味が書かれていて驚いたという。

⑴ 古書を読んで昔の物事を参考にして理義を明らかにすること
⑵ 学んだことを練習すること
⑶ 武芸遊芸等を習うこと
⑷ 高い学識を有すること

 ⑶の意味が一般的であるが、「稽古三昧」によって自分が信奉する伝統をひたすら学んで、反復繰り返しの修行を通して、知性脳のニューロン回路に異次元の転位を起こして「感性化」する。武芸・遊芸・芸術は「自然をいかに体現するか」の営みである。知性の次元を超えた感性の心境にならないと駄目であり、意識は自然体の邪魔になる。「稽古三昧」の修行を黙々と重ねていると、無意識で体が自然体として動く。稽古は「知性の感性化への道程」である。

一人歩きしたスポック博士の「自由育児法

  1960年代にアメリカで女性解放運動が起って全米に広がり、離婚率が倍増した。家庭崩壊、家族消滅の犠牲になる子供の放任、虐待、遺棄、ネグレクトが日常茶飯事となり、未婚の母親が急増して母親の愛情欠乏症候群が社会問題になった。
 スポック博士の育児書の日本語版が1966年に東大小児科の高津忠夫教授の翻訳で暮しの手帖社から出版されて日本全国に広がり、アメリカの家庭崩壊から始まった愛情欠乏症を是正するための忠告だった「自由育児法」が拡大解釈されて、世界でも類を見ないような「子供中心型育児法」が「一人歩き」し、日本では家庭が荒れておらず、伝統的育児が維持されていたにもかかわらず、厚生省が後押ししたこともあって瞬く間に広がった。
 赤ちゃんの時に欲求不満の状態のままにしておくと、成長してから情緒不安定な子になってしまうという考えが広がって、赤ちゃんが泣いたら抱き上げ、欲しがるだけお乳を飲ませ、添い寝もおんぶも赤ちゃんが欲しがるだけ満足させてやるのが良いという「子供中心型育児法」がまかり通るようになってしまったのである。
 井口によれば、親の過保護、過干渉という「愛情過多」は非行誘導の危険をはらむ悪魔の愛情であり、子供の問題行動の背景には「愛情欠乏症候群」と「愛情過多症候群」が入り混ざっていることを見誤らないように警告している。
 自己抑制の育児法では授乳は時間を決め、泣いてもすぐには与えない。添い寝もしない。この世では欲しがっても、必ずしも叶えられないという「諦念」を持たなければならないことを知って、親に依存心を持たずに、自律の生き方が身に付くことになる。母親の負担は少なく、余裕をもって子供の成長を見守ることができる。学校生活の適応は良好で、有意義な人生を全うできる。

●「戦後教育の病」を一掃する見直しのポイント

 井口は「赤ん坊の体と心(脳)の仕組みの相違の基本を知って、何の根拠もない思いつきの流言に騙されるな」と強調し、子供は自然にほっといた方がよいなどということは「ヒトの脳生理学」を無視した、子供の将来を駄目にする「由々しき暴言」と喝破する。
 井口は「戦後教育の病」を一掃するための教育の見直しのポイントとして、⑴教育の本質は伝統にあることを考えよ、⑵子育ての生物学的原点のポイントを掴め、⑶伝統に科学の光を当ててやること、⑷「善い親」をつくるためには、「心の成長生理の仕組み」を公教育の正課において生物学の時間で教えよう、⑸これからは「自己抑制できる人間の時代」という視点を列挙している。
 人間以外の動物では行動の本能は脳に刷り込まれているが、人間の場合の価値観は生後の道徳教育によって繰り返し繰り返し訓練され、躾され、人格の中に取り込まれて無意識で、当意即妙に表現されるようになる。人間は道徳を意識下で無意識のうちに機能させているから生きていけるのである。最初はぎこちなくても、我慢して黙々と繰り返しているうちに、無意識で道徳ができるようになる。これが「人間の生き方の根本である」と井口は言う。
 まず⑴の「伝統」は年月に耐えてチェック済であり、「伝統」は信用できる。「躾・道徳」という伝統的な考えは大人が自分のつくった枠を子供に強制しようとするもので、子供の個性を歪めるものでよくないという批判があるが、「赤ん坊の大脳の神経細胞は誕生時にはほとんど未熟で、生後の養育刺激を受けてニューロン化が進み、これが子育ての生理学的基盤であることは明白だ」と反論している。

●「子育ての生物学的原点」のポイント

 ⑵の子育ての生物学的原点のポイントについては、ルソーの「子供を不幸にする一番確実な方法は、いつでも何でも手に入るようにしてやること」という指摘を踏まえて、「子育てのコツはその逆を考えればよい」とアドバイスしている。
 また、躾とはわがままを抑えることであり、それによって本来の自分が見えてくる。「少しでもよく生きようとする人間本来の趨勢」にスイッチが入る。躾はそれを包む大きな愛情が前提で、ねむの木学園園長の宮城まり子も「子供を躾で叩いたら、そのまま抱きしめてしまうの、その手を離したらお終いではないか」と述べているように、優しさに裏打ちされた厳しさのみが子供の心を育てるのである。
 躾によってこの世には「断念」ということが必要だということをわからせ、「善き人間」とは自分を抑えるスベを身に付けた人で、「善き人間になろう」と働きかける必要がある。
 ⑶の「伝統」の理解のために、科学の光を当てて伝統の本質を浮かび上がらせることは意味があり、江戸期の幼年期教育における「素読の伝統」に目を向けると、「幼年期ならば感性脳(大脳辺縁系)しか働いていないので、人格の中に入る」からであり、「ヒトの教育の会」において、生物学的教育論を伝統教育で展開している意味はここにある、と説明している。
 ⑷の「善い親」になるための「鍵」を握っているのは「道徳」を「ヒトの生物学として余すことなく教えること」であるという。道徳教育によって子育て・教育の基本線は頭に入っているから「善い親への道」が敷かれる。
 ⑸の「自己抑制できる人間の時代」については、19世紀のイギリスの偉大な博物学者の孫であるハックスレーが地球の歴史を「物の時代(第1期)」「生物の時代(第2期)」「人間の時代(第3期)」「人間の自己規制の時代(第4期)」と予言したことを取り上げて、まさしく「正鵠を得た至言だ」と述べている。

●「心の生物学」のつぶやき

 井口潔「心の生物学」の結語は次のように締めくくられている。

<人間以外の生物は「体」で生きる生物であり、それは成長と繁殖の一つの特性を備えた化合物である。この生物が永らく進化を遂げていくためには環境と調和するという「体の仕組み」をつくりあげて、類人猿まで進化した。エネルギー獲得の仕組みの体の進化は限界にきたので、認識獲得という新しい「心で生きる生物」に進化するために、巨大脳が賦与されたのがヒトである。ヒトを人間にするために人智が考え出したのが「躾・道徳・教育」である。ヒトは教育・道徳によって初めて人間になることができる。遺伝的生物学的進化の体を持って、「文化情報伝達機構」という人智の意識で生存していくためには、教育・道徳という伝統の人智による自己抑制の仕組みが必須なのである。これが私の教育・道徳の生物学である。…進歩とは伝統を破ることというが、啓示によらない知性による独創は伝統を破壊して人間の生得の財宝を失わせ、致命的な危機を招く。困難に遭遇した時、知性はあまり役に立たない。感性がなるべきものを調和させる。そこに「ヒトの法則」がある。この「ヒトの法則」の本質を弁えないで、ルネッサンス的な「モノの法則」を人間に適用するのが人間の新しい生き方だと嘯く現代人の小賢しさこそ人類の危機である。現代人は人間社会を「いかにうまく運用するかの戦術を考える」のではなくて、この「人間生存の理法」の生物学的基盤に思いを致さなければならないのである。>

 
 

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