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翻訳家として生きる。——その2

 明けましておめでとうございます。
 とはいえ、元旦早々、北陸一帯を襲った大地震に度肝を抜かれ(しかも、これを書きはじめたら、羽田空港での航空機衝突事故)、被災者の方々の身の上を思うと、祝詞を口にするのも慮られます。

 とにかく年は明けました。
 このページを立ち上げたのはほぼ半年前のこと、試行錯誤でここまでやってきました。好き勝手なことを書き散らすのであれば、試行錯誤も何もありません。個人ブログ(新・十勝日誌)とは違って、この note では、あくまでも立ち位置を翻訳家という職業に定めて何が書けるかを模索してきたのでした。
 おかげさまで——というべきかどうかはわかりませんが——、現時点では27名の方々がこのページをフォローしてくださっています。まことにありがたいかぎりです。まだまだ試行錯誤は続くと思いますが、よろしくお付き合いください。
 前回は、「翻訳家として生きる」などという多少気張ったタイトルになりましたが、初めからそんな覚悟があって翻訳という仕事を始めたのではありません。いわば、身過ぎ世過ぎに過ぎなかったのです。それがどうして、翻訳という世界にこんなに深入りしてしまったのか。
 そもそも最初は「文学」の翻訳などやっていなかった。いわゆる産業翻訳とかビジネス翻訳とか呼ばれるもの——文字どおり、産業界やビジネスの世界で必要とされる翻訳を、原稿用紙一枚いくらで、右から左に(?)翻訳していたのである。用が済めば、最終的にシュレッダーに行ってしまうような文書の翻訳。今であれば、プリントアウトもされずにハードディスクのゴミになるようなもの。
 それでも楽しかった。自分の書いたものが一枚いくらで「売れる」という感覚がスリリングだった。と同時に「文学」とおさらばできたという感覚が何より新鮮だった。
 そう、最初は好奇心とか知的虚栄心とか、いろいろな要素が絡まって、夢中になってあれやこれや文学作品を読み漁っていたのだが、そのうち、そういうものが辛気臭くなってきたのである。六〇年代に頂点に達した政治や文学の自由感、あるいは芸術、音楽シーンの興奮や熱気が一気に冷えてきて、敗北感やら挫折感やらネガティブな感情があたりに漂いはじめたということもあったかもしれない。
 大学最後の年になると、このままだとのたれ死んでしまうかもしれないと本気で焦った。それでとにかく就職した。しかし、青春の熱気というやつは、そう簡単には冷めてくれない。で——なんども繰り返すけれど——、会社を辞めてアルジェリアに出奔した。そこで経験した海(地中海)、砂漠(サハラ)が、たぶんその後の人生を決定した。あちこちの風景、光景が目に焼きついて離れないのである。
 というよりも、その経験が翻訳家という職業に自足することを妨げるのである。ほかにまだやれることがあるのではないか、という逃げ道を塞ぐことができない。
 制約は死だというスピノザの言葉を本気で信じていたのかもしれない。
 しかし、精魂尽き果てた。つい最近のことである。地中海やサハラはこの世のものではない。過去にこの身で経験した場所かもしれないが、今生きている場所ではない。自分ではその記憶に支えられて生きてきたと思っているが、じつはそうではない。翻訳者として編集者に信頼され、読者に支えられ、かろうじて生きてきた、という当たり前の事実に今更ながら思い至ったのである。
 それは覚醒とか悟りとか、そんな大袈裟なものではない。日々確認し、たえず軌道修正を迫られる、そんな心細い足場のようなものです
 その足場を固めるために、この note を始めたのかもしれないとも思います。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

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