田舎の生活はゆっくりなのか

よく田舎の時間は「ゆっくり流れる」と表現される。

これには時間にルーズだとか、細かいことは気にしないことだとか人間自体の感覚や感性のことを指す以外に、鳥の声や雲の動きに意識的になり、自然の時間を知ることといった外部からの動きに加え、仕事の締め切りや電車の時刻など生活の中で自分の時間を制御するものがなくなったことが関係していると考えられる。

私自身は2020年半ばに東京から長野県に引っ越した。

確かに、東京に住んでいた頃は朝起きると、急いで着替えて支度をし、会社の始業時刻に遅れないように電車に7時50分までに乗らなければいけず、その電車にも周囲の人とぶつかりながらの通勤だった。

会社に着くと朝礼や部下との会議があり、昼にはプロジェクトの進捗報告、その合間に自分の仕事を片付けるという、まさに秒単位のスケジュールだった。

今振り返ると、当時の時間の使い方は主に、人やシステムに合わせた過ごし方をしていた。

しかし、地方に来ると、(今の仕事の仕方もあるが)これまでとはかなり異なった生活や仕事のスタイルになった。電車に合わせる必要もないし、会議も上半身だけ映るウェブ会議だ。

ただ、今の状態を「ゆっくり」とした時間が流れるようになったかというと、そんなことはない。むしろ「忙しい」くらいだ。

これは、自分の合わせる時間が人やシステムだけでなく、自分の周辺環境の天候や樹木、動物たちといった、これまで周辺になかったものの時間の流れ方が複合的に合わさってきたからだ。

私は長野の山奥で暮らしているが、冬には雪が1メートル以上も積もる豪雪地帯に住んでいる。真冬には零下20度ほどまで冷え、東京ではなかった暖炉や大きなストーブが室内にある。

秋には暖炉用の薪を作るための原木を調達し、翌年の春になったら冬ごろまで薪割りの毎日だ。原木は木が水分を吸い上げる春から夏にかけて切ると、水分が多く、腐ったり、乾燥に時間がかかるために、薪には使えない。広葉樹は乾燥に2年は置いておかなければいけないなど、時間がかかる。

また、市街地まで車で30分ほどかかるため、野菜を頻繁に買っているのも億劫になり、近場で食料を調達できれば畑を始めると、春から秋口まで野菜の世話に、その作物の鹿対策に非常に忙しい。鹿は苗が出来始めの若葉を食べてしまう。

平日は会社員として仕事をしながら、早朝や週末に生活の準備をする。もちろん薪も食料も購入することはできるが、全てお金で解決すると、かなり高くなってしまう。

そのため、全く「ゆっくり」ではない時間の流れ方をしている。しかし、異なる時間の流れが自分の周りにはあるのだということを実感している。

人やシステムの流れと自然の流れだ。

今は「人とシステム」は平日に、「自然」の流れは週末にと分かれているが、この分かれている世界をもう少しごちゃ混ぜにしながら、絡み合わせられないかと考えている。

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという人が提唱する「環世界」という考えがある。

「環境世界」ではなく「環世界」。この書籍によると「環境(Umgebung)」とは客観的なもので、「環(Umwelt)」は主体的なものだという。

どういうことか。

「動物たちが自分にとって意味あるものとして撰びだし、それによって作り上げている環境世界」のことが「環世界」だ。

この著作によるとつまり、「環境」はある主体の周りに単に存在しているものの一方で「環」は主体が意味を与えて構築した主観的世界だ。

これを踏まえると、今私が暮らしている環世界は、東京時代に比べて「人とシステム」の環と「自然」の環が合わさってきている。更に言えば、ほぼ100%をインターネットを使っている現在の生活の「人とシステム」はデジタルの環と言えるだろう。

自然から見える主体的世界とデジタルの主体的世界はどうつながるのだろうか。これが繋がらなければ、私の生活はずっと平日と休日が分かれたままだ。

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