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キャリアにおいて、好きを大事にすることの難しさと大切さ。

私は好きを大事にしてこなかった。好きを少しずつ大事にし始めた今、そのことに気づく。
自分を知る友人からはよく言われたのが、
「そんなに生き急がなくて良いんじゃない」。
その時は、何を言いたいのかよく分かんなかったから、ただ、ふーんと聞き流していた。しかし、「生き急いでいた」私と似た考え方を今も貫いている古い友人に会って、腑に落ちたのだ。
久しぶりに会ったその友人は、10年先まで見据えたゴールを明確に持っていて、それにまっすぐに向かって脇目も振らず、ひたすら努力していた。会う人や旅する先全て、その目標につながるように行動しているようだった。
変わらずすごいなぁと思った。同時に、余計なお世話だが、生き方として苦しいなと思ってしまったのである。人生もっと純粋に好きを大事にしても良いのではないかと。一見無駄と思えることの中にこそ、見えるものもあるんじゃないかと。

Should(すべき)とWant(したい)

就活していた頃、先輩に勧められた『絶対内定』という本に、Can(自分ができること)とShould(すべきこと)とWant(したいこと)が重なる場所を進路として選ぶと良いと書いてあって、私は妙に納得した。
そして、当時ベストと確信できる道に進んだ。
しかし、この時私は、この3つのどれを重視するかをそこまで意識的に考えていなかったのだ。どれも最大スコアがそろうような場所があれば迷うことはないだろうが、なかなかそうはいかない。私たちは、Can, Want, Should、天秤にかけて意思決定をしている。
私の場合は、知らないうちにShouldのおもりが重くなっていった。
高校の頃から描いていた夢は純粋にWantだった。しかし、年を経るにつれて、こうした方が良い、という声が色んなところから聞こえてくるのだ。
例えば、大学。東京の良い大学に行った方が、選択肢が広がる。
大学での課外活動は、リーダーシップ経験、留学経験があった方が良い。
それからキャリア。一番難易度が高い場所にまずは入っておいた方が良い。
その声を取り入れるにつれて、WantがShouldに侵食されていく。
このShouldの声は、人それぞれで、家族や大事な人との関係性で聞こえてくる内容も、その重要性も違うだろう。ここでのポイントは、Shouldはあなた自身の声ではない、ということである。

「高学歴エリート」に蔓延する生き急ぎの”Should”

これすなわち、人より常に良くあるべき。
あくまで、私の主観、かつ、私の限られた人間関係での観察だが、日本の良い大学を出て、抜きん出ようと頑張っている人の多くは、このShouldを大事にしていると思う。アメリカのトップ大学を出た人達にも同じことを感じた。日本では、労働市場が流動的になり始め、この傾向は強くなってきているように思う。
このShouldが支配的になると、例えば、分刻みでスケジュールを管理して、寝る間を惜しんで仕事をして、有意義なネットワーキングをして、休暇も仕事に生かせるような過ごし方をする。昇進も、出世ができるところに手を挙げる。Competitiveである(競争力を持っている)というのは、こうした日々の積み重ねの結果である。
私はイギリスに来るまでは、完全にこのマインドセットで日々過ごしていた。日々に遊びがなく、まさに生き急いでいた。たまに少し遊んだ後は、それを取り戻すように仕事をした。それが自分のWantでなかったとしても、である。
この結果、どこに行ってもやっていけるという自信は手に入れた。同世代である程度抜きん出ることはできたのかもしれない。しかし、同時に、それでもって何をしたいかが、急に分からなくなってしまった。

好き(=Want)はぜいたくだが必需品

そこで、私はアラサーになってようやく、頑張る分の少しを自分の好きに振り分けるようにした。
仕事はできる限り定時で切り上げ、例えば、趣味を再開したり、週末は純粋に行ってみたいと思う場所に旅したり、友人との一対一の時間を大切にするようにした。この「寄り道」の結果、仕事に集中しているだけでは得られない物事に触れ、自分の進む方向性に新たな彩が加えられ、これぞと思える道が今見えつつある。
好きを大事にすることが必需品なのは、それが個性を作るからだ。
繰り返しになるが、Shouldは自分自身の声ではない。あなたが大事にするShouldの声が、社会に広く共有されているものであれば、それを聞けば聞くほど、あなたの個性は埋没する。
私がずっと無意識に聞いていた「人より良くあるべき」はまさにその例。頑張って辿り着いてもその先には、自分と似たような人がそこそこいるのである。もちろん、人より良くあることをずっと極めれば、それはそれで個性になるのかもしれないが、皆がそうなれるわけでもない。私は少なくとも、Shouldを極めたいと思えなくなってしまった。
一方で、好きを追求することは、ぜいたくなのも事実。なぜなら、それは往々にして能力(Can)が必要になるから。
その点で、私にはまだShouldを全部捨てて頑張ることをやめるられるだけの自信はない。今も頂点を目指して戦おうとする友人と話すと、不安も感じる。しかし、ようやく、好きを追求してみても死なないのではないかと思えるようになった。

自分の人生を生きる
この言葉の意味がすとんと落ちるようになったアラサー女でした。

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