悲願へ 12


 続きです

 講演が終わり質疑応答に移りました。最初の質問で「物質的な豊かさを目指さなくても、もともと清貧に近い思想だったのですから、そのまま清貧を貫けばよかったのでは?」とありました。これに対しては、戦争アレルギーによって「清貧」が否定されていたということでした。庶民の生活面では清貧は否定されていなかったが、社会の指導者層の間では否定されていたということです。時代背景とともに、人の立ち位置によっても思想は変わるということでしょう。当たり前のことなのですが、中々そうしたところを意識し続けられません。当時は物が無かったと言われますが、その無さ加減を理解できておりませんでした。山口良忠という裁判官に触れていましたが、国の言う通りに配給だけ食べていたら餓死をした方だそうです。生き残った人間は全員、闇米を食べていて、著者自身も、親が闇米を買い、闇の牛乳を買ってくれたから今があるとのことでした。無さ加減が我々の年代からは想像もつかないレベルです。そんな状態ですから、物質的な豊かさを実現してから清貧に向かう、それが幸福であるとのことでした。貧しい状態からすれば豊かなことが幸福で、豊かになったら貧しいことが幸福、幸福とはいつでも動いているのだそうです。

 「貧しさに向かう」という所が今一つ理解できなかったのですが、「貧しさを味わう」と言い換えていました。「手作り」、「体験」、「寄り添い」なんていうのが、「貧しさを味わう」ということ。「手作り」なんていうのは、手軽に手に入るものをあえて手作りするなんていうのは、少し前からそうしたサービスはありますし、そうした手作りも含めて「体験」しますね。農業なども「体験」があります。「寄り添い」は家庭教師やライザップのような専属コーチのことだそうですが、そこはちょっと「貧しさ」とは逆こうしているように思えました。そこから著者の事業の話になりますが、著者は経営者としてやる気はないといいながらも、業績好調で無借金経営だそうです。それは結果として「手作り」と「寄り添い」に参画して、時代に合っていたとのことでした。時代に合っていたというだけで、それだけの経営が出来てしまうというのですから、あくせく働いている自分は何なのやらと思ってしまいます。でも、時代に合わない効率の悪いことをやっているという自覚もないわけではありません。

 さらに続きます。

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