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教育を「手段」とするなかれ ~映画「教育と愛国」を観る~

先週13日(金)封切りのドキュメンタリー映画「教育と愛国」を観てきた。

2017年にMBSで放送され、各種賞を受賞した同名のテレビドキュメンタリーの映画版だ。

検定意見を受けて「パン屋」から「和菓子屋」に書き換えられた道徳教科書、中学歴史教科書における従軍慰安婦問題の記述で一挙にシェアを落としてその後倒産した日本書籍、「新しい歴史教科書をつくる会」の動きと政治家によるその後押し、歴史教科書における沖縄戦集団自決の記述への書き換え指示、教師らが集まって製作した「学び舎」の歴史教科書とそれに対するバッシング、閣議決定を受けての教科書での「従軍慰安婦」と「強制連行」という語句に関わる訂正申請、「表現の不自由展・その後」の開催への妨害、日本学術会議任命拒否問題など、2000年代以降の出来事をつないで描き、教育と学問への政治的介入が強まっていく様子を不気味に描き出す。
沖縄戦集団自決の記述問題、教育基本法改正など、私が「教育原理」を担当していたときには授業でも扱っていたような、ある程度内容を知っているものも多いが、「学び舎」の歴史教科書を使う私立校への抗議のハガキの束(文面は同じものが多数)や、そのハガキの数少ない実名での差出人(当時市長)へのインタビューでの「私の知り合いのとても尊敬する方が…」といった語りなど、リアルで迫力があった。

メディアへの圧力や自主規制も強まっているように思われるなかで、こうした映画が作られることは貴重だ(なお、元がテレビドキュメンタリーだけあって、映画というよりは、2時間弱のテレビドキュメンタリー番組といった感じのつくりだ)。
また、政治介入の実態を広く伝え、それに対抗していこうとする動きにも賛同する。

そのうえで、の話だが…。
この映画には、一方で、微妙な引っかかりや物足りなさを感じる点もある。
それは、教科書の記述や授業のあり方に対してこんなおかしな&不当な政治介入が行われている!というのを描くことに力点を置くあまり(繰り返しになるが、これを訴えること自体は重要だ)、では教師や子どもが自分の頭で考えて表現することができるようになるには何が必要なのかという部分が薄れてしまっているように思われる点だ。

教育を自己の目的実現(左翼言論の排除など)のための手段として使い、教師や子どもを自分の頭で考えなくさせてしまうことが、こうした政治介入がもつ問題点だと私は考えているが、実はこうした問題は、政権に批判的な立場をとるほうの動きにも同様に起こりうる。「戦争反対」を掲げれば、「従軍慰安婦」と記述すればOK、みたいな形になってしまっては、同じ穴のムジナになる恐れがある(国家権力を背景にもってはいないという重要な違いはあれど)。
もちろんこの映画は、そこまで単純な落とし穴には嵌っていないが、それでも、政治介入する側ー政治介入される側といった図式になりがちな点は気になった。例えば、出版社や学校、教師、学者が「偏向している」として権力者とその追従者によって叩かれる際に、なぜ教育界や学術界がそれを守ることができないのか、といった問いは必要になると思う(これは私自身にも突きつけられる問いだ)。もちろん、それができなくなっていること自体が政治圧力の産物だ、という捉えもできるだろうが。

その点でいえば、まさにそうやって叩かれた側の一人、大阪の中学校の平井美津子先生(慰安婦問題を扱った授業の記事が出てそれを大阪の吉村市長が非難し、学校に抗議が殺到した挙げ句、文書訓告処分を受けた)が学校がもつ教育課程編成権専門職としての教師に言及しているのは、この映画において重要だったように思う。教育を「手段」にする動きに抗するためには、学校や教師の自律性がなぜ大事なのか、自律性を保障されることによって何をなしうるのかを示していくことが必要だ。

「何が教科書に盛り込むべき正しい事実か」をめぐる議論になると、永遠に決着はつかないというか、さまざまな立場がありうるだろう。
それを前提としたうえで、ではそうしたさまざまな立場の人間が社会で共存していくにはどんな教育が必要なのか
それを考えられるところにこそ教育分野の専門性はあるはずだし、逆に、それを考えられないような教育分野であれば、その自律性、政治からの独立など守るに値しないと、きっと社会からはみなされてしまうだろう。

思考をかき立てられる映画。
5月末から6月にかけて全国でも順次公開予定とのこと。機会があれば是非。

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